その古さは、まだ氷河期が終わる以前の時代に製作されており、今から16,500年の土器まで確認されている。土器の形や文様から、縄文式土器は草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の六期に分けられている。縄文時代の終焉は弥生式土器が出現する2,500年ほど前までの時代である。
初期のものは底が紡錘形で、竪穴式住居の床に直接差して固定していたと思われる。また表面に文様はない。
やがて、厚みのある土器が一般化し、表面には縄目模様のあることから、縄文式土器と言う名称が付いた。土器の使用目的は様々なもので、保存用の食物を入れたり、または直接火に掛けては煮炊きに使用していた。
中期から晩期に掛けては、祭司的な目的で製作された土器も多く、当時の縄文人の芸術性を開花させた作品も多く存在する。中でも有名なのは、信濃川流域で広く発掘された縄文中期の火焔式土器と呼ばれる物である。その造形は炎が燃え上がる時の状況に似ていることから、その名称が付いている。
また、縄文時代のオーパーツとして知られる遮光器土偶は、青森県の亀ヶ岡から東北一帯で広く発掘されており、当時の東北には、これらを囲む文化圏が存在していたと思われる。
遮光器土偶はその時代は縄文晩期と言われており、目の部分はイヌイットが使用した遮光器と似ている点から、この名称が付けられた。この独特な形状から、日本や海外から宇宙人を模した物と見る者も多い。または荒覇吐神像(※)と見る者も存在する。
日本が生んだ天才芸術家である、岡本太郎は縄文土器を見て、古代縄文人の芸術性の高さを高く評価していた。彼は縄文式土器を目で見たときに、その造形から縄文人の魂が彼にぶつかってくるのを感じたと言う。特に火焔式土器と対面した時の岡本太郎の言葉がある。
「常々芸術の本質として、超自然的激越を主張する私でさえ、思わず叫びたくなる凄みである」
岡本太郎が製作した作品にも、時折縄文式土器や土偶をモチーフにした作品があるのは、それだけ縄文式土器から強い影響を受けたということではないだろうか。
(藤原真)
(※荒覇吐神:「あらはばき」と読む。荒吐、荒脛巾とも表記される。日本の民間信仰の神の1柱で、起源や歴史的経緯には不明な点が多い。『東日流外三郡誌』にて遮光器土偶の絵で示されていることから、それに影響を受けたフィクションや、古史古伝・偽史的な主張と結びつけられることが多い)