吉岡は08年オフ、楽天から戦力外通告を受けた後、メキシコ球界に挑戦。「メキシコ球界初の日本人バッター」として、ヌエボラレド・オウルズで活躍した。2010年は現地・野球アカデミーの指導も務めたが、帰国後、家族、関係者とも話し合い、現役引退を正式に決定した。
ちょうど1年前の今頃、筆者は吉岡に「今後」について質問したことがある。
「自分自身に納得していれば、(楽天を)クビになったときに(現役を)辞めていたと思うんです。気持ちのなかで何かモヤモヤしているものがあって、次に何かするとき、それが野球以外だったとしても、モヤモヤしているものが残るんじゃないか、と。一軍の試合にも出られない状態が続いていて、そういう気持ちが強くなったんだと思います」
まるで事前に答えを用意していたかのような淀みのない口調で、そう答えていた。
2年間のメキシコ生活で、自分自身を納得させる「何か」を得たのだろう。
メキシコの野球レベルはWBCの上位進出で証明済みだが、その環境は日本の比ではない。吉岡の話によれば、外野席を儲けていない球場も少なくなく、従って、ホームランは「スタンド・イン」ではなく、「球場に外にボールが消えた」ようなイメージだという。「もし、日本なら設計段階で何かしらの対策が施されていたはず」という劣悪な球場もあったそうだ。三塁を守っていて、一塁にスナップスローをしたら、強風で送球がホームベース方向に押し流され、打者走者をセーフにしてしまったこともあった。荒野のような場所にポツンに造られたスタジアムで、『強風地帯』なのである。しかし、吉岡は「みんな同じ条件なのだから」と、決して泣き言は言わなかった。むしろ、野球を続けている喜びに眼を輝かせていた。
「自分が『外国人選手』という立場になって、言葉の通じないところに来て、チームとの接し方、コミュニケーションが成績を左右することを実感しました。野球だけをやっていればいいというのは、非常にストレスの溜まることで、日本に来る外国人選手もそういう気持ちだったんでしょうね」
幸い、吉岡のチームには日本球界を経験した外国人選手もいた。彼らが「分からないことがあったら、何でも言ってくれ!」と声を掛けてくれたことが「本当に有り難かった」と言う。
こうした貴重な経験は大きな財産になったはずだ。また、彼が指導者の道に進んだ場合も同様である。テレビ中継されるメジャーリーグのスタジアムは常に華やかである。しかし、華やかなだけが「外国の野球」ではない。生活や野球環境の違うなかで夢を追うことがどんなに辛いことなのか…。そして、自らに課したノルマを克服したとき、それが人生の大きな糧になる。吉岡は異国で精神的にも大きく成長した。
「もっと、野球を知りたい。巧くなりたい。まだまだ知らないことがあるんじゃないか」
2001年、近鉄で経験した優勝は「巨人時代よりも嬉しかった」という。チームに貢献していたからである。近鉄時代を知るバファローズ選手がまた1人バットを置いた。吉岡のこれからの人生にエールを送りたい。(一部敬称略/スポーツライター・美山和也)
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