冬は洋傘の仕事を坂田の店から下請けし、夏は水道自在器。これで1年間の仕事は確保できるし、バックルを納品すれば利益も上がるので将来の運転資金に回せる、こう考えて、この際、独立しようという気持ちが徳次の中で強まっていった。
一人前の職人になったら肉親と会うと決意した徳次だが、独立を目前に、まだ見ぬ実の両親に会いたくて我慢ができなくなった。1年余り徳次が抑え込んでいた肉親を慕う気持ちが一気に噴出した感じだった。
明治45(1912)年3月25日、徳次は養家で見つけた花の日記からメモした日本橋鉄砲町の浅田洋次郎という人を訪ねることにした。日記からは徳次の姉が嫁いだ先と思える家だ。
浅田家を訪ねる決心をした徳次は、浅草の代書屋で身分証明書を作成した。20年近くもたってしまった今、自分の素性をうまく説明できるか、徳次は不安だった。そこで助けになればと思って、自分の大体の履歴を代書人に作ってもらったのだ。ほかに13歳の時に坂田の店で撮ったものと最近のものと、2枚の写真も用意した。
坂田の店から日本橋鉄砲町の浅田家まで、徳次は歩いた。縞の羽織に角帯、上からマントを着て鳥打帽をかぶった。今では鉄製に架けかえられた思い出深い両国橋を渡る。長屋時代から丁稚奉公のころのことが徳次の胸に浮かんでは消える。やがて浅田家に着いた。
徳次が驚いたことに、浅田家は丁稚時代からよく出入りした地金問屋だった。黒塗りの倉庫造りの威容を放つこの店に、徳次は何度、地金を買いに来たことか。
店の手前でちょっと立ち止まった。お客さんや店の人が忙しそうに立ち動いている。表から訪ねて門前払いをされたくないので、裏手の住まいを訪ねることにした。浅田の表札を確かめて玄関の格子戸を開け「ごめんください」と声を掛けた。