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非業の死を遂げた名力士 「剣晃(小結)」

 入門前の力士が優等生だったという話は、あまり聞かない。たとえば九重親方(元大関千代大海)は地元の大分では名うての不良少年だった。入門するときも、師匠の先代九重(元横綱千代の富士)の前にパンチパーマの金髪姿で現れると、
「その頭を何とかしてこい」
 と追い返されている。
 ただ、そんな悪ガキほど、入門後は別人のように真面目でひた向きに努力し、出世も早い。それだけ角界では入門してからの教育やしつけが厳しいのだ。関取になっても憎まれ役や暴れん坊のイメージが抜けないのは、よほどの大物か、反骨者と言えるだろう。
 そんな「ヒール(悪役)」の役を一手に引き受けて土俵狭しと暴れまくり、突然、原因不明の奇病にかかって現役中に没したのが、平成のひとケタ台に活躍した元小結の剣晃(本名・星村敏志)だった。
 剣晃は、昭和42年6月27日、大阪府守口市で生まれた。2歳のとき、繊維関係の仕事をしていた父親が亡くなり、母親の智恵子さんの手で育てられている。中学時代は柔道をやり、中学の先輩だった先代高田川親方(元大関前の山)に、
「柔道よりも相撲が面白いぞ。どうだ、力士にならないか」
 と声をかけられたのをきっかけに、いったんは高校に進学したものの、1年で中退して入門した。
 初土俵は昭和59年九州場所。入門前、荒んだ生活を送っていたことは、見るからに不健康そうな青白い顔が雄弁に物語っていた。そのため、部屋の行司で間もなく立行司の式守伊之助に昇格が決まっていた式守勘太夫(当時・木村和一郎)が、
「これからはこれが一番だ」
 と、“健康”の字をもじって“剣晃”という四股名を付けた。しかし、大相撲界では「剣は折れる」と言われて嫌がる傾向がある。
「その四股名はやめとけ」
 先代の高田川親方はこう言って反対。しかし剣晃は、
「いや、せっかく和一郎さんが考えてつけてくれたんですから」
 と主張し、亡くなるまで変えようとはしなかった。このときからすでに自分の健康に不安を感じていたのかもしれない。
 最高時で身長194センチ、体重145キロと均整の取れた体つきで、得意は左四つ。しかし、右四つでも突っ張って取れるなどの器用さもあり、出世スピードはまずまず。入門して8年目には十両、翌年の平成4年名古屋場所には入幕を果たした。
 剣晃が、たとえ相手が横綱、大関だろうと容赦なく顔に張り手を浴びせるなどヒールぶりを発揮し、悪役ぶりを強く印象付けたのは、その3年後の平成7年。とりわけ、名古屋場所は圧巻だった。

★横綱貴乃花に張り手攻勢
 まず3日目。大関昇進を目指す関脇武双山に、立ち合い、強烈な張り手を見舞い、たじろいだところを左四つから右上手投げで快勝。すると、翌日の横綱貴乃花にも。
「顔を出してジッとしていたので、『あれっ、張っていいのかな』と思って張っただけだよ」
 こう振り返ったように、またまた激しい張り手攻勢。残念ながら最後に寄り切られて負けたものの、勝負がついた後、貴乃花がムッとした表情でにらみつけると、こう言ってにらみ返した。
「チクショー。もう1回、やりたいのかよ」
 この場所、こんなふうに暴れまくって11勝をあげた剣晃。7日目に横綱曙からあげた金星などが高く評価され、初三賞の殊勲賞を獲得した。
「(受賞の)インタビューでは声が出なかったよ。緊張したのかな。賞金はパーッと使います、と言うとヤバいかな」
 こう言って笑い飛ばしている。
 この名古屋場所の1つ前にあたる夏場所、さらに次の秋場所の計2回、西小結に昇進。いずれも負け越したが、これが自己最高位になった。
 このとき28歳。まさに脂が乗りきったときだ。しかし、好事魔多しのたとえ通り、その足元には不気味な病魔が忍び寄っていた。
 前兆は、新小結の夏場所中のことだった。40度を超す高熱に見舞われたのだ。
 剣晃は、かねてから健康には人一倍、神経を使っていた。
「セロリやアスパラガスなどの青汁がいい」
 そう聞くと、巡業先にまで青汁製造機を持ち込み、毎日、ドンブリ1杯ずつ飲んでいた。また、周りの力士たちにも勧めていた。
 にもかかわらず、この突然、襲ってきた発熱に剣晃は恐れおののき、急いで病院に駆け込んだが、いくら調べても原因が分からない。しかも、これ以降もしばしばこの発熱に見舞われ、さらに貧血、体重の減少までみられるようになったのだ。平成9年春場所には、140キロ台を維持していた体重が120キロ台まで急降下している。
 だが剣晃は、休場はせず、気力で土俵に上がり続けた。
 当時の剣晃の様子を兄の隆志さんが振り返っている。
「不思議なことに、場所が近づくと熱が下がるんです。でも、10日目すぎになるとまたぶり返し、場所が終わるとそのまま病院に直行して入院、という繰り返しでした」
 大相撲界のヒールが、これしきのことに負けるワケにはいかないと、自分に言い聞かせていたのかもしれない。平成9年夏場所も高熱と闘いながら、東前頭11枚目で8勝7敗と勝ち越している。
 ただ、その気力もここまでだった。この場所後、剣晃は故郷である大阪市内の病院に入院し、二度と退院できなかったのだ。次の名古屋場所で相撲協会に提出された休場届には、「不明熱、汎血球減少症」という、素人には判断のつかない病名が書かれていた。
 これは、血液の機能が低下する白血病の一種で、日本にはまだ剣晃を含めてたった4例しか発病例がなく、そのうちの2人はすでに死亡しているという、奇病中の奇病だった。もちろん、治療法などは確立していない。
「残念ですが、息子さんは助かりません」
 入院して間もない時期に、母親の智恵子さんは、こんな非情の宣告を受けている。

★「母ちゃん、もう眠りたい」
 どうして剣晃はこんなやっかいな死病にとりつかれたのか。のちに智恵子さんはこう話している。
「発病した原因は最後まで分かりませんでした。ある担当医は『足に打った痛み止めの注射が体内でおかしな化学反応を起こした』と言うし、別の医者は『血液内にウイルスが入り込んだ』って言うんです。亡くなったとき、担当医に『非常に発病例が少ないので、今後の医学界のためにもぜひ解剖させて欲しい』と言われましたけど、それだけはお断りしました。本人も、力士はきれいな体を見せるのも大事な仕事の一つ、と言って、体にメスを入れるのを嫌がっていましたから」
 ただ、剣晃は最後の最後まで生きる希望を捨てなかった。
「オレの本当の病気はなんなんだ。もう一度、社会復帰できるのか、できないのか。親には言わずに、オレにだけ、本当のことを言ってくれ」
 このように医師に迫り、死後、枕元のカバンには、血液に関する医学書がずっしり入っていたという。
 しかし、病魔は容赦なく剣晃の体を蝕んでいった。入院時、ふさふさだった力士のシンボルであるマゲも、たび重なるステロイド剤の投与ですっかり抜け落ち、最後は丸坊主だったという。
 そして、平成10年春場所3日目の3月10日午前11時50分、ついに剣晃は永眠した。直接の死因は肺出血だった。享年30。
 最後の出場から9カ月。番付は西前頭6枚目から幕下の東55枚目まで降下していた。
 亡くなる直前は体のありとあらゆるところを痛がり、そばにあるものを掴んでは投げつけていたというが、最後に智恵子さんにこう言って目を閉じたという。
「母ちゃん、もう眠りたい」
 このヒールの急死は、春場所中の力士にも大きなショックを与えた。高田川親方は息を引き取った15分後に病室に駆け付けて号泣。
「治るものだと思っていたので、思い出なんて思い出せないよ。将来、部屋を継いでもらいたかったのに、こんなに若くして逝くなんて…」
 かつて思い切り顔を張られたことがある貴乃花も往時を振り返った。
「若い衆のときから稽古をつけてもらい、思い出もいっぱい。あの強烈な張り手はこらえるのが精いっぱいだった」
 取組後、しんみりと語った貴乃花は、翌日、敷島に敗れて休場に追い込まれている。

相撲ライター・大川光太郎

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