まず、太平輪が貨物船の建元輪と衝突し、沈没に至った大きな要因として、ネットなどでは夜間航行禁止令を犯しての強行出港であったため、夜間でありながら航行灯を消していたことを挙げる事が多い。ところが、上海档案館(文書館)に残されている事故の経緯図によると、回避義務を負っていたのは太平輪の可能性が極めて高く、建元輪の左舷ほぼ中央に衝突している点からも、太平輪の操船ミスが事故の主因と推測される。つまり、太平輪が早期に建元輪を発見し、回避していれば事故に至らなかった可能性が高いのだ。
では、太平輪の回避失敗には、いかなる理由があったのか?
まず、建元輪が航海灯を点けていたかどうかは、乗員が全員死亡したため判然とはしない。ただし、夜間航行禁止令そのものの根拠が確かではない他、衝突位置から建元輪の上海到着が早朝になる、つまり「夜間に航行していないと到着しない時間帯の入港」となることから、そもそもそのような指示が存在していたかどうかも疑問なのだ。つまり、航行灯の消灯問題に関しては、根拠がいささか弱いとみなさざるをえない。
では、太平輪が建元輪の発見、回避に失敗した要因は、他に存在するのだろうか?
残念なことに、事故当時の太平輪は多くの問題を抱えており、要因はひとつに絞り込めないのだ。まず、迫り来る共産党軍から避難するため、太平輪には2093トンもの各種物資が搭載されており、同じく定員を大幅に超過していた乗客と合わせて、深刻な過積載状態であったのは間違いない。そのため、船舶としての性能も大幅に低下しており、回避に失敗する要因のひとつとなった可能性は極めて高いのだ。
その上、太平輪には台湾へ避難する上海政財界の要人が多数乗船したことから、先行きに不安を感じた人々が争うように乗船を希望し、出航前の船内は大混乱状態であったとされる。加えて、出港直前に予定外の重要物資を搭載しており、出港時刻を遅らせたばかりか、搭載した貨物のバランスにも問題があった可能性が指摘されている。
そして、出港当日は中国の暦で大晦日にあたり、船内の規律が乱れていた可能性も高いのだ。実際、生存者の証言によると一部の船員も飲酒していたとされるほど、船内の規律は緩んでいたのである。
もちろん、このことは非常に大きな意味を持っていた。
(続く)