パニックそのものについては放送翌日の新聞報道と、後にプリンストン大学のキャントリル教授が著書『火星からの侵入』で推計した影響などをもとにした記事やコラムが、現在もなお繰り返し様々な媒体に掲載、配信されている。だが、ウェルズが「宇宙戦争」を放送した番組そのものや、その背景について解説した文章は極めて少ないので、事件の背景を理解する助けとしてごく簡単に説明する。
オーソン・ウェルズは1930年代に米政府の演劇振興事業「連邦劇場計画」を通じて大きな成功を収め、また後に映画や演劇プロデューサとして全米に名を轟かせるジョン・ハウスマンと交流を深めた。ウェルズはハウスマンと組んで劇団「マーキュリー劇場」を主宰し、特に当時22歳のウェルズは「ブロードウェイ最年少の青年座長」として注目を集めている。そして「マーキュリー劇場」は原作を斬新に解釈した脚本や実験的な演出などで高く評価された他、興行的にもおおきな成功を収めた。
やがて「マーキュリー劇場」はラジオドラマ化され、ウェルズは「マーキュリー劇場放送」として劇場と同様に実験的な演出や音響効果、斬新な脚本で番組制作に臨んだ。ところが、番組は批評家などから高く評価されたものの、大衆からの反響は薄く、聴取率も低いとみなされた。当時の「マーキュリー劇場」はスポンサーの付かない局制作番組だったので、ウェルズはかなり自由にやらせてもらえたらしく、特に音響効果や演出については最先端のアイディアが盛り込まれていたという。
そのような背景のもと、問題の「宇宙戦争」が放送されて大きな騒動へ発展する。新聞報道などにより、いわゆる「炎上」してしまったことから、ウェルズは謝罪会見を余儀なくされるわけだが、番組自体は全米の注目を集め、多くの熱心な聴取者を獲得するきっかけとなった。さらに、缶スープで知られるキャンベルがスポンサーとして名乗りを上げ、事件から数週間で「キャンベル・プレイハウス」と名を変えている。
また、ウェルズ自身も「宇宙戦争」で高く評価され、事件をきっかけに映画製作へ進出して名作「市民ケーン」を手掛け、そして今度は本当に干されることとなるのだが、それはまた別の物語であろう。
(続く)