新浦は68年、静岡商業1年次に夏の甲子園で準優勝を果たし国内外から注目を浴びることとなった。若い注目株に国内6球団とメジャーリーグは争奪戦を繰り広げた。当時、韓国籍で外国人選手扱いだった新浦は、その時のドラフト制度ではドラフトにかけられる必要がなかったため、高校を中退して巨人にドラフト外入団したのだった。入団当初は制球難に苦しみ“ノミの心臓”とも揶揄されたが、負けても負けても使い続けた長嶋監督の期待に応え、76年からは4年連続二桁勝利と活躍した。77年、78年は最優秀防御率投手賞、78年には15勝7敗15セーブで最優秀救援投手賞に輝くなど、76、77年の巨人2年連続リーグ優勝に貢献した。
巨人退団後は発足直後の韓国プロ野球界に渡り、リーグを代表するエースとして活躍。3年後に日本球界に復帰し、大洋ホエールズで2年連続で二桁勝利を挙げカムバック賞も受賞した。その後ダイエーホークス、ヤクルトを経て92年に引退し、25年間の現役生活にピリオドを打った。韓国時代を含むプロ通算成績は170勝143敗42セーブだった。
引退後はその豊富な経験を生かして野球解説・評論家・野球教室・韓国プロ野球チーム臨時コーチなどを務めている。94年には著書を出版し、現役時代に糖尿病と闘っていたことを明かした。当時の夕刊紙担当記者は言う。「当時、駆け出し記者だった私ですが、新浦さんは一つ一つの質問にとても真面目に丁寧に答えてくださったのを覚えています。現役時代、病気のことを隠しながら現役を貫き、隠れてインシュリンの注射を打っていたのですが、それがふと誰かに見られて“覚せい剤”とあらぬ誤解をされたことも…。でも新浦さんは言い訳などせず、寡黙にプロ魂を貫いた。とても心を打たれました。堅実にひたむきに野球に情熱を持って戦ってきた姿は新浦さんの人柄そのものだと思います」。
現在は現役当時よりやや柔らかいイメージとなり、自らの経験を少しでも人が頑張るパワーに変えたいと講演活動も行っている。均整の取れた体格を生かし紳士服のモデルの仕事も引き受けるなど、第二の人生を楽しんでいるともいえる。