1949年10月1日に中国共産党は国民党に勝利を収め、中華人民共和国がここに成立した。国内統一を成し遂げた中国共産党はその後、国民開放軍をもって中国全土を解放することを発表した。それに伴い、それまで自主独立を保っていたチベットもその矛先とされたのである。中国政府とのやり取りの際、まず中国側は「チベットの国防を中国の管轄とすること」「チベットが中国の一部であると認めること」をチベット代表へ押し付けた。チベット代表がこれを拒否すると、1950年10月7日に中国人民解放軍は4万の軍隊を投入して、東チベットの州都チャムドへ武力侵攻を果たした。僅か8千名のチベット軍は2日で敗退し、4千名もの戦死者を出した。そうしてチャムドは制圧された。
1951年4月にチベット政府は再び政府の代表団を北京へ派遣した。4月29日にチベット側は屈辱的な中国側の草案を突きつけられた。チベット代表団には条約締結の権限は与えられていなかったが、中国側は中国の協定を受け入れるか、ラサへの攻撃を受け入れるかの選択を迫った。
1951年5月23日に、チベット代表団は本国と連絡が取れない状況で、中国側の出した「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放に関する協定」に署名をした。中国はそれを世界に向けて発表した。その内容にはチベットへの人民開放軍の侵入を許可し、チベット全権を中国政府に委譲する旨が記されていた。ただし、ダライ・ラマの地位・職務・権限などについては干渉しないというものだった。北京放送でその内容を知ったダライ・ラマはその協定を承認せず、1951年8月17日ラサに戻ると同年9月9日に人民解放軍は約3千の兵をラサに派遣した。さらに、東トルキスタン方面から2万もの兵を派遣し、チベットの都市はことごとく占領された。チベットからインドへ、8万の同士と共に亡命を果たしたダライ・ラマは1959年6月20日に、武力によって押し付けられた「17条協定」を正式に拒否したのである。
ダライ・ラマの去ったチベットは、更に中国政府から激しい弾圧を受けた。中国政府は後にチベット自治区を成立させ、それまでのチベット文化をことごとく破壊したのである。ダライ・ラマは1959年4月29日に北インドでチベット亡命政府を設立し、インドから世界に向けて中国の侵略を非難したのだ。1960年代後半に中国で起こった文化大革命は更にチベットに災いをもたらせた。寺院の95%は破壊され、飢餓や中国との戦闘、拷問などで死亡したチベット人は延べ120万人にも及んだ。
1990年代に入ると、チベット改革開放政策によって、チベットに大量の中国人が移住してきた。民族浄化政策によって、これら移住者は優遇され、チベット人との間に格差社会を生み出す結果となっている。現在の富裕層は中国人で占められ、チベット人は現在も激しい貧困や差別と戦っているのである。チベット亡命政府はインドから世界へ向けて、非暴力を持って中国政府を非難しているが、その声は世界に届かず、チベットは自主独立を果たすことができずにいる。
チベットが独立する日、それはいつの日になるのだろうか。(藤原真)