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経済偉人伝 早川徳次(シャープ創業者)(67)

 国内外で事業を広げ、前にも増して多忙を極める徳次の元に昭和2年11月13日、日本文具製造から債務2万円を支払うようにという内容証明書が届く。徳次は内容証明書がどういうものか知らなかったので、そのまま机の引出しに入れて放っておいた。エバー・レディ・シャープペンシルの特約の契約金1万円と事業拡張資金として貸与した1万円の計2万円の支払いの請求。大震災の直後に早川兄弟商会に請求してきたものと同じ内容なのだ。東京にあった機械類と48種類に及ぶシャープペンシルにかかわる特許を譲って、この債務は終了している。何かの間違いだろう、と徳次は思っていた。

 ところが年の瀬になってから、裁判所の執行吏一行がやって来て、早川金属工業研究所の差押えを宣告した。日本文具製造からの債務不履行の訴えによるものだ。執行吏に債務の返済済みであることを訴えたが、それを証明する書類の提出を要求され、徳次は当惑した。そんな書類はお互いに作成していなかった。信頼に基づく約束と徳次は考えていた。
 昭和3(1928)年になり正月も過ぎると、徳次はさっそく欣々に優秀な弁護士を紹介してもらう。欣々は2年前に夫を病気で失った後、社交界からも身を引いて静かに暮らしていた。
 紹介された大塚弁護士は、裁判が長引くであろうこと、弁護士の費用もかなりかかることなどを説明して、徳次の意志を確認した。徳次は日本文具製造の、人の誠意を踏みにじったやり方が許せなかったので、時間と費用がかかることは承知の上で訴訟に踏み切った。
 昭和4(1929)年、不景気は悪化し、勤勉・倹約が国の方針として国民に奨励され始めた。そこに追打ちをかけて、この年の10月には大恐慌が全世界を襲った。そんな中にあって、早川金属工業研究所の業績は相変わらず順調だった。工場を増設する必要が生じ、それに伴って敷地内にあった徳次の自宅は、近くに移すことになった。
 これを機会に徳次は欣々を大阪に呼び寄せた。夫を亡くして寂しく暮らす欣々が心配だった。

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