話を戻すが、いわゆる巌流島には興味深い歴史があり、そこにはいくつかの謎も秘められているとされる。
まず、巌流島のこれまでを簡単におさらいすると、歴史に島が初登場するのは文禄元年(1592年)の秀吉遭難事件である。ところが、この事件には不可解な点がいくつかあり、島は歴史に登場した段階から謎を秘めていたのである。
まず、秀吉遭難事件の概略を説明すると、朝鮮出兵中に母である大政所が危篤との報を受けた秀吉は、急ぎ船を仕立てて肥前(佐賀県)の名護屋城に構えた陣より出発し、海路で大坂城へと向かった。ところが、乗船は巌流島(船島)の南東付近にあったとされる岩礁に乗り上げ、たまたま付近を航行していた毛利秀元の船に助けられたという。
秀吉が遭難した浅瀬は満潮時に海没するうえ、関門海峡は潮流が激しく、加えて戸ノ上おろしと呼ばれる突風が吹き付けることから(戸ノ上は門司区大里の戸上山であろう)、秀吉遭難以前より難所として恐れられていた。岩礁は地元で篠瀬(しのせ)と呼ばれていたが、時には「死の瀬」の字が当てられていたほど、付近では知られた難所とされる。
ともあれ、秀吉は九死に一生を得たものの、大坂へたどり着いたのは大政所の死後だった。母の死に目に会えなかったことを知った秀吉は、その場に崩れ落ちたと言う。
とまぁ、これが秀吉遭難の概略だが、この物語にはいくつかの謎があるとされる。それはまず遭難の原因であり、また秀吉御座船の船頭が迎えた運命であり、そして御座船の名前である。加えて、名刀「厚藤四郎」もまた、これらの謎と深く関わっているのだ。
(続く)