この「首塚」は地元発行の郷土史ガイドや社会科の副読本、あるいは教科書などでも紹介され、また大衆向け歴史ガイドやインターネットでもそのように伝えられている。ところが、現在「首塚」と伝えられる築山は阿弖流爲が活躍した時代よりも古くから存在する古墳の可能性が高く、少なくとも2006年には「地元の個人が夢のお告げをもとに首塚伝説を創作し、メディアなどを通じてひろめていった」過程まで明らかとなっているのだ。
また、それ以前の1993年には地元市議会において「牧野公園のマウンド状の高まりが首塚とも呼ばれることをただ一つの根拠にして、ここを阿弖流為が埋葬された場所と特定するに至ったものであります。もちろん地元にはこれを裏付けるような伝承なり、伝説のたぐいは一切ありません。このような経過をたどってきたのが実情でありまして、枚方市としては歴史的根拠のない場所を確たる証拠もないのに、阿弖流為の墓にはできませんし、説明板なり顕彰碑を建設すべきではないと考えます」と教育委員会の担当者が答弁しており、1997年にも地元の市史編纂委員会が『郷土枚方の歴史』において「牧野公園内のマウンドを処刑地あるいは首塚とする歴史的根拠はまったくない」と断じている。
にも関わらず、少なくとも2003年からは一転して地元自治体が阿弖流爲の首塚として顕彰する姿勢を見せ、先述のように郷土史ガイドや教科書の副読本、はては教科書そのものにまで根拠のない首塚説を掲載するようになっていったのである。これは当時の市長が強く望んだためとされているが、真相はヤブの中で、ひとつの大きなミステリーとなっているのだ。
歴史は重く真剣に受け止めねばならないのに、無縁史跡のような軽い(自由な)存在には耐えられないと受け止めるか?
あるいは、その軽さや自由さこそがミステリーの、ひいては歴史の面白さなのか?
それこそ、歴史が審判を下すテーマではあろう。
(了)