そのため、それらの珍名所をめぐっては、時として史学を始めとするアカデミズムと地元の間で対立が生じたり、さらには文化財保護事業にまつわるどろどろした駆け引きも繰り広げられているのだ。
近年では千代田区のいわゆる「将門塚」をめぐる考古学者と一般市民との論争が、東京都の文化行政を揺るがす騒動へ発展したことが知られている。
顛末をざっくり解説すると、千代田区大手町一丁目二番一号外に「将門公の首塚」なる東京都指定の旧跡が存在している。この史跡は平安時代中期の関東豪族である平将門が朝廷に反旗を翻したものの敗れ、京都でさらし首となった後「関東を目指して飛び去った」伝説をもとにしている。明治以降は朝敵として冷遇され、江戸期には存在していた塚も工事で崩された。ところが太平洋戦争後は再評価が進み、大河ドラマや小説の題材にもなった。
特に昭和末期には平将門は江戸、つまり東京の守護神として扱われるようになり、首塚をめぐる怪奇なエピソードを交えつつ大衆的な人気を獲得している。
とはいえ、将門公の首が飛んで帰った塚という伝奇的な由来であり、さらに明治期の破壊によって考古学的な価値は失われたと考える専門家もいた。そのため、東京都が2005年に考古学者や歴史学者で作る検討委員会へ都が指定する「旧跡」の分析を依頼した際、この首塚も「伝承や物語に過ぎない」あるいは「史実の根拠があいまい」として、指定解除を勧告されたのである。
しかし、この勧告に将門塚保存会など多くの都民が反発し、都側も教育庁が「検討委を尊重して検証を進めているが、半世紀近くも都がお墨付きを与えてきただけに、すぐに廃止という訳にはいかない」と、煮え切らない対応だった。そのため、いつの間にか指定解除は立ち消えとなり、現在も「旧跡」として親しまれている。
東京都の文化財情報ホームページには「明治時代以降、幾多の変遷の後、昭和45年に将門塚保存会などにより現況に整備されたものです」と曖昧に濁しているが、アカデミズムの疑義すらも退けたことで、将門伝説に新たなエピソードが刻まれたと言えよう。
ただ、この「将門塚」は曲がりなりにも現況ですら半世紀近くの歳月を閲しており、それ以前から信仰の対象であったことを含めれば、旧跡としての価値は疑いようもない。ところが、将門と同じく朝敵となった阿弖流爲(アテルイ)にも、同じように縁もゆかりもない土地に建てられた墓がある。そこには、ひとりの奇人と行政との、ミステリアスな物語が存在していた。
(続く)