ところが、同じように朝敵として処刑された阿弖流爲(アテルイ)の首塚についても、やはり「史学の立場からは縁もゆかりもないと批判されて」おり、しかも「伝承は1980年代に突如として出現した」とされているのだ。
まず、阿弖流爲(アテルイ、阿弖流為とも)とは、平安時代の蝦夷(えみし、現在の関東地方と東北地方、およびそれ以北を示す)における軍事指導者で、胆沢(現在の岩手県胆沢地方)に侵攻した数万の朝廷軍と対決し、巣伏の戦いで大敗させた。だが、その後に坂上田村麻呂に敗れて降伏し、京都にて処刑された人物である。
阿弖流爲については長らく朝敵として正史から黙殺された存在であり、現在も謎の多い人物とされる。しかし、太平洋戦争後は東北地方を中心に郷土の英雄として再評価の機運が高まり、特に2010年代に入ってからは各種メディアでも頻繁に取り上げられ、演劇や娯楽作品のテーマとなるなど、大衆にも広く認知されるようになっていった。
そのきっかけとなったのは、巣伏の戦いから1200年に当たる1989年には記念祭が開かれた他、水沢市の跡呂井町内会が「アテルイ王千二百年祭記念碑」を建立するなど、大きな盛り上がりをみせたこととされる。そして、昭和末期の阿弖流爲再評価は史学の立場から「そのような伝承があった形跡は全く認められない」とされる首塚の、突飛な起源を探る意味からも、非常に重要な出来事と考えられている。
では、問題の「伝承や史学的根拠の裏付けを欠いたまま定着しつつある」阿弖流爲の首塚について、大まかな流れを説明しよう。
(続く)