しかし不幸が続いたりしたとき『先祖の祟り』と、先祖が何か悪さをしているという考え方もある。中には、『先祖の祟り』を封じるためと称する霊感商法も存在する。
そもそもなぜ『先祖は祟る』のか? もし本当に先祖であるなら、自分の血を受け継ぐ人に不幸を与えるというのは、どうにも納得がいかない。
『先祖の祟り』にはいくつかの説がある。
その人の行いが悪い場合などに、先祖がバチを与えるということで、不行跡を改めさせようとする教訓説話。
先祖が自分たちの恩を忘れてしまった人に対して“そんな子孫は不幸にしてしまえ”という先祖復讐説。
不幸なことは“先祖のせい”にしてしまうことで、自分たちの不幸の理由を作るという心理学的解釈。
霊感商法として先祖の祟りを喧伝したため。
などなど。
古来日本人には先祖を祀るという習慣があり、戦国時代にやってきた宣教師フランシスコ・ザビエルが日本人に「キリスト教の福音を聞くことなく死んだ人は地獄へ行く」と教えたところ、多くの日本人が「祈りによってご先祖さまを救えないのか」と問い「救えない」とザビエルが答えると、日本人は皆泣いたということが書き残されている。
いまでもキリスト教が日本人に広まらない理由として、キリスト教には先祖崇拝の思想がないためという人がいるくらいである。日本人にとって先祖信仰(祖霊崇拝)は、根深く身についたものであるらしい。
もうひとつ日本に古くからある宗教観が『祟り信仰』である。平安時代では九州に流された菅原道真が死んだ後、祟りを怖れて神として祀ったり、平将門の首塚の祟りを信じるというのは、日本人ならば潜在的に持っている心理であるのかも知れない。
この先祖を祀るということと、祟り信仰が合わさったのが『先祖の祟り』である。本来、仏教や神道には『先祖が祟る』という考えはなかったともいわれているが、近年になって新興宗教や、霊感商法業者が『先祖の祟り』をビジネスツールにしているともいわれているので、気をつけたいところだ。
『先祖の祟り』似たようなものに『水子の祟り』というものがあるが、本来日本には『水子供養』という考え方はあっても『水子の祟り』という発想はなかった。『水子の祟り』というものが出てきたのは1970年代から急速に広まったものであり、それには新興宗教やそれにつながる霊感商法業者が関係していたという。『先祖の祟り』も同様のことがあると指摘する人もいる。
どうせなら、いま仮に不幸だとしても、先祖の祟りのせいにするよりも、先祖を称えながら努力した方がいいのではないだろうか? もしツイていないことが連続して起きたとしても、もうすでに亡くなった先祖のせいにして先祖を呪うよりも、いま生きている自分があるのは先祖がいたおかげと祝ったほうがいいのではないだろうか?
そして憂鬱に『憂き世』を生きるよりも、むしろ発想の転換をしてウキウキと『浮き世』を生きたほうがいいのではないだろうか? と、思うのである。
巨椋修(おぐらおさむ)(山口敏太郎事務所)