菊池というと、1983年に芸能活動をスタートし、雑誌のイメージガールを経て84年公開の映画『パンツの穴』でヒロインを演じて注目される。同年4月にシングル『青春のいじわる』でアイドル歌手デビューすると、一気にトップアイドルの地位に。85年、日本武道館でのコンサートは当時の時点で最年少公演記録となり、入場できなかった観客1万人超が長蛇の列を作り伝説となった。
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そんな華々しい菊池の活躍とは裏腹に、伝説のロックバンド「ラ・ムー」の結成は“黒歴史”といわれている。
1988年、菊池はデビュー5年目を迎え、85年から87年にかけてのシングルが7作連続でオリコン1位に輝く偉業を成し遂げていた。清純派アイドルとして優等生っぽさと、ささやくような優しいボーカルが持ち味の菊池にとって、ロックは最もかけ離れた存在だっただろう。フュージョングループ「プリズム」のサポートミュージシャンとしても知られるキーボーディストの松浦義和が中心となり、ラ・ムーは結成された。
88年2月、菊池は東京・赤坂プリンスホテルにおいて単独記者会見を行い「アイドルでいることに違和感があった」と転身の動機を述べた。だが、このバンドには多くの謎に包まれていた。
「まず、ボーカルの菊池とともに2人の黒人女性が踊りながら歌い、キーボードやドラムス、ギター、ベースの4人がサポートするという7人編成のバンド。本人たちはなぜか“ロックバンド”を名乗っていましたが、曲調は当時、なじみのないR&Bやファンク系で、アイドル時代と何ら変わらない菊池の歌い方は強烈な違和感を残しています。また、同年のデビューシングル『愛は心の仕事です』のタイトルはインパクトが強く、ジャケットも現代的な都市空間に、古代人のような男女4人が空飛ぶ舟に乗って浮かぶイラストは何を意味しているのか不明。さらに、挿入されたチラシにある“桃子なのにラ・ムーなのはなぜなの?”という解説文も謎です。結成の経緯は、アイドルとして限界を感じた菊池へのテコ入れだとか、ロックに憧れた菊池の熱望など諸説ありましたが、未だに詳細は迷宮入りのまま。トップアイドルの転身に話題性は十分でしたが、結果は予想を下回り、ファンに鮮烈な印象を残したまま、1年あまりで事実上の解散となったのです」(芸能ライター)
1989年9月、デビュー当初から菊池に携わってきた前事務所に移籍した菊池は、女優に専念。移籍後にもかかわらず、菊池はCMでも成功し、一度路線変更に失敗したタレントとしては異例の復活を遂げたのだ。
以降、この活動はお蔵入りとなったのだが、バンド・筋肉少女帯の楽曲の『パンクでポン』の中で、ラ・ムー時代の菊池が「真のロッカー」である、とボーカル・大槻ケンヂが褒め称えている。
中途半端に終わった菊池の転身。活動期間が短かったにもかかわらず、未だに菊池=ラ・ムーのイメージが強い。昨年11月に経済産業省の経済産業政策局長の新原浩朗氏との再婚を発表した際にも、ラ・ムー時代が掘り返された。ある意味レジェンド的な存在として脚光を浴びている。