「(2月)11日深夜、ご子息であり、一軍作戦コーチである野村克則氏のところに電話が入ったんです。克則コーチの緊急帰京もあり、楽天の関係者は朝からざわついていました」(取材記者)
三木肇監督、石井一久GMなど「監督・野村」の薫陶を受けたスタッフも多い。故人が最後に指揮官を務めたチームであることも大きいだろう。「野村監督がタネを蒔いて、次の監督が花を咲かせた」――。多くのメディアがそんな風に故人の功績を讃えていた。
「野村さんが監督に就任されたのは、楽天イーグルスが出来て2年目の2006年でした。ベテランの山崎武司さんが野村監督の指導で復活し、4番に定着したことで、楽天ナインが『野村シンパ』に変わっていきました」(関係者)
その故人が蒔いたとされるタネとは、一体どんなものなのか。故人がヤクルト指揮官の時代から、他球団で干された選手を復活させることで、「野村再生工場」なんて呼ばれ方もしていた。しかし、チームを強くすることだけが名将と呼ばれた理由ではなかった。
「配球データですよ。対戦投手の投じたボールを全て書き記し、それを誰が見ても分かる記述で表し、作戦会議に使っていました」(前出・同)
ストライクゾーンを9分割し、どのコースにどんな球種を投げ込んだのかを書き記していく。「○」「△」「▼」「×」などの記号を使い、変化球の種類を9分割の表に書き記していく。変化球の種類を記す記号を統一し、それがストライクなのか、ボールなのかも分かるような書き方を編み出したそうだ。
また、その9分割された表は対戦バッターを封じるためのバッテリーミーティングにも使われた。9分割されたコースごとの打率がさらに書き込まれ、ヒットにされた時の球種が何だったのかまで書かれていたという。
今日では当たり前のように、全球団に浸透しているチャート表ではあるが、その礎を作ったのが野村氏だった。
生前を知るプロ野球解説者がこう続ける。
「現役時代から馬が合っていたのは、森祇晶さんです(元西武、横浜監督)。同じキャッチャーとして配球の話をしていました。お互いの家を往き来し、野球の話が終わらず、気がついたら朝になっていた、と」
前出の関係者によれば、野村氏が“らしくない”育成法を見せた選手が一人だけいたそうだ。田中将大投手である。
野村氏は「褒める、叱る、けなす」を段階的に使い分けてきた。しかし、田中に対しては「けなす」は少なかったそうだ。高卒ルーキーながら、一年目から使わなければならなかった当時のチーム事情もあったと思うが、田中に対してだけは「褒める」がメインだった。
「ルーキー時代の田中は、野村さんに褒められたストレートが試合で通用しませんでした。『このままではプロで生きていけない』と田中自身が悟り、投球論を自分から学びにいきました。練習で『今のままでは通用しない』と伝えるよりも、実戦で痛い目に遭って、そこから這い上がってこいという教育でした」(前出・関係者)
野村氏は今日の田中の活躍を予想していたのかもしれない。年長のプロ野球解説者の中にはメジャーリーグがキライなタイプも多い。野村氏も自分からメジャーリーグの話はしなかったが、「マー君(田中)は勝ったか?」と常に気に掛けていたそうだ。(スポーツライター・飯山満)