「キャッチャーの地位を高めた人ですよ。昨季、広島の會澤捕手がフリーエージョント権を行使するかどうかで迷っていた時、球団は迷わず、『3年総額6億円プラス出来高』(推定)という、破格の好条件を提示しました。キャッチャーがいかに重要であるか、野村氏は好捕手を育てながら、そのことを証明していきました。野村氏がいなければ、捕手の年俸がこんなに上がらなかったでしょう」(プロ野球解説者)
相手チームの主力選手のクセ、傾向、対戦投手の特徴などをデータ化したID野球でも知られている。
兼任監督時代を含め、3204試合の指揮を執ってきた。本当に野球を好きなのだろう。解説者に転じてからも、必ず出る言葉が「監督をまたやりたい」だった。
NPBスタッフがこんな話をしていた。2004年3月、アテネ五輪・野球競技での金メダル獲得を目指す長嶋茂雄代表監督が脳梗塞で倒れ時だった。その後、代表チームの代理指揮は中畑清コーチに委ねられたが、その最終決定前、NPBスタッフは野村克也氏に“代理監督”を打診したそうだ。
「当時の野村氏は社会人野球・シダックスの監督でした。長嶋氏と野村氏はセ・リーグで優勝を争ったライバルみたいな関係でもあり、半ば、ダメモトであたったんですが…」(関係者)
内々で野村氏のもとを訪れたNPB関係者は「即答で断られると思った」という。しかし、実際は違った。野村氏は「長嶋氏がどんなチームを作り、五輪本番に臨もうとしていたのか、詳しく聞かせてほしい」と返したそうだ。“野村ジャパン”が実現しなかったが、その理由は悲観的なものではない。氏の野球に対する熱意は十分に伝わり、「チーム作りの途中段階からお願いするのは失礼。お願いする時はきちんとしなければ」というものだった。
また、あるプロ野球解説者によれば、野村氏は「一回くらい、強いチームの監督がしてみたい」とも話していたそうだ。ヤクルト、阪神、楽天、確かに「監督・野村」の行く球団は強くなかった。チーム再建、優勝するための土台作りといったものだった。「強いチームの監督」に憧れるのも分かるが、野村氏は自分でそう言っておきながら、「でも、弱いチームが強いチームに勝つから…」と言い直していたそうだ。
野村時代を知るヤクルトOBに、当時のミーティングノートを見せていただいたことがある。キャンプ中、長時間のミーティングが野村氏のもとで行われていたのは有名だが、その在任期間である1990年から98年までの間、キャンプ初日の2月1日のページは、必ず、「人として」で始まっていた。野球の話が3割、7割が「人間として、どうあるべきか」だった。
「監督というよりも、学校の先生みたいだった」(ヤクルトOB)
選手を褒め、叱り、そしてボヤく。野村氏は野球を介して「人」を育てようとしていたのかもしれない。ご冥福をお祈り申し上げる。合掌。(スポーツライター・飯山満)