「馬淵監督は冬の期間、基礎体力面で徹底的に選手を鍛え上げます。対する中央学院の相馬幸樹監督は社会人野球・シダックスの出身、野村克也氏に薫陶を受けた若い指導者です」(アマチュア担当記者)
馬淵監督はやみくもに選手を鍛えているのではない。また、中央学院の練習量が少ないという意味でもない。ノムラID野球とは,平たく言えば、対戦チームの傾向をまとめ、それに応じて作戦を立てていく。ID野球と名将がぶつかったら、どんな試合になるのかが注目されていたのである。
野村氏に学んだ選手のなかには指導者となった者も多い。氏が専任監督を務めたヤクルト、阪神、楽天以外にも散り、ID野球は現プロ野球の戦力の礎となったと言っても過言ではない。
「ID野球は各球団でさらに改良されています。今日ではメジャーリーグ式のデータ収集法、選手能力の分析法も広まっていて、各球団とも、事細かな戦略を立てています」(プロ野球解説者)
ID野球は監督・野村のミーティングで説明されていったという。そのせいだろう。こんな声も聞かれた。「今さらだが、そのミーティングノートがほしい」――。それも、一部のプロ野球関係者、現役の球団スタッフからそんな声が出ているのだ。
「実は、ミーティングノートのオリジナルを持っていないのは、ヤクルトなんです」(球界関係者)
ヤクルトはID野球を提唱した最初のチームでもある。野村氏がヤクルトの指揮官を務めたのは1990年から98年、その後、阪神、シダックス、楽天を渡り歩いているが、ヤクルト球団だけがミーティングのオリジナルノートを持っていないそうだ。
ヤクルトOBの一人がこう言う。
「その通りですよ。野村さんが監督を務めていらした9年間のミーティングノートのオリジナルはヤクルトにはありません。だって、個人財産ですから」
この「個人財産」なる言葉が意味深い。同OBによれば、当時の野村氏のミーティングはホワイトボードで行われたという。学校の授業のように野村氏がボードに書き、それを選手たちがノートに書き記していく。話に熱が入ると、ボードを消してすぐに次のことを書きなぐっていく。そのスピードに付いていけない選手も出て、隣の席に座っている者のノートを覗いて書き足していくという、まさに学校の授業のようなミーティングがされていたそうだ。
この話を阪神OBの元プロ野球選手に聞いてみた。
「阪神でのミーティングはちょっと違いました。プリントが配られ、それを教科書のように使って野村さんが説明してくれました」
阪神に詳しいプロ野球解説者によれば、当時のナインから、「野村さんの筆記が早すぎる」との苦情が出て、球団スタッフがプリント物を作成することに改められたのだという。阪神指揮官に就任した1年目の途中からそのように変更されたという。また、シダックス、楽天の関係者にも確認してみたが、「メインは野村氏の話」としつつも、ノート記述以外にも、プリント物やプロジェクタースクリーンなどが使われていたそうだ。
つまり、ヤクルトだけは”ミーティングの副教材”を作らなかったため、結果的にIDノートが残らなかったわけだ。
「野村さんがヤクルトで指揮を執られた9年間でIDノートが完成するとすれば、そのミーティングに皆勤賞で出席できた選手だけが『原本』を作ることができたと言えます。その間、トレードなどで移籍してしまった選手もいれば、9年間在籍したとしても二軍降格で野村さんのミーティングに出られなかった選手もいます。でも、苦労してノートを書いた甲斐もあって、だいたいのことは記憶しています」(前出・ヤクルトOB)
戦略の説明、選手に喝を入れる、スケジュールの伝達、ミーティングにはいろいろな要素があるが、プロ野球各チームに「副教材作成」が定着しなかったのは、「有効な戦略」を作れる指揮官が現れなかったためか…。30日にプロ野球ペナントレースが開幕する。12球団の指揮官は試合前のミーティングでどんな言葉を掛け、選手をグラウンドに送り出すのだろうか。