メインのストーリーラインは、ジャズのサックス奏者で主人公・矢代俊一(野村宏伸)が、鹿賀丈史演じるヤクザの滝川と、滝川の昔の女である南部恵(倍賞美津子)さらに、複数のヤクザ者と寝て問題起こす英子(三原じゅん子)の3人と関わることで、裏の社会を体験するというもの。しかし、俊一はそこまで方々で起きている問題に積極的に首を突っ込まないので、時々周りに振り回されはするが、ギリギリ傍観者的立場を維持している。唯一、前半の波止場のシーンで、滝川を襲うために対抗勢力の組員が待ち伏せしているのを報告しにいく部分と、英子と肉体的な関係を少しでも持ってしまう点をのぞけば。
実家が裕福で、趣味に生きているお坊ちゃんサックス奏者が、そういった人間の世界を知って、哀しみや怒りなどを糧として一人前のジャズメンを目指すような、ハードボイルド作品を目指しているのはわかる。だが、主人公がそこまで他の登場人物との関わりが強くないため、成長劇としてはイマイチなのだ。結局印象に残るのは劇中に頻繁に流れる『レフト・アローン』ばかり。最近の無難に作ろうとする邦画ではありえないような手法だ。ある意味斬新。ちなみに、主役を演じるに際し、野村はサックスの猛特訓をしており、吹き替えなしらしい。演奏の演技はかなり様になっているのだが、かわりに他のシーンでの演技がかなり酷い。そういった要素もこの作品の全体的な訳のわからなさに手を貸している。
なお、セットはかなり凄い。このあたり、当時の角川映画の一点豪華主義がかなり出ている。ただ、雰囲気にこだわりすぎて、リアリティーという部分が非常に薄いのが難点だ。これが禁酒法時代のアメリカのハーレムが舞台ならば多少納得がいくのかもしれないが。演出もハーレムが舞台の作品『コットンクラブ』を強く意識している。そのせいで「関東連合」という日本名の架空ヤクザ組織の名前がどこか気の抜ける部分になってしまう。しかも、現実の世界には暴走族の組織に同じ名があったし。
さて、この作品の珍妙な雰囲気を楽しむにはどうすればいいのか? ひとつ提案できる視聴方法がある。劇中では他のキャバレーに移籍しようとしたベーシストの指を滝川の子分が詰める場面があるのだが、その時俊一は「あんた人間じゃない」と言う。そこで滝川は「俺はヤクザなんだ」と返すのだ。という訳で、俊一を通し、人外魔境の世界を体感していると脳内変換すれば、この現実にはありえなさそうな空間も納得がいくかと。
劇中で俊一は常に“人間”として関わろうしているため、裏社会にどっぷり漬かりすぎた他の登場人物には響かない。もう妖怪か神話の住人のように価値観が違っているのだ。初体験の相手である英子が、目の前で滝川と対立するヤクザに犯されているのに、ほぼ無反応なのもそのあたりの理由だろう。女まで縄張りの所有物や自身のメンツの要素として扱い、殺し合いにまで発展する世界が理解できないのだ。そして、そこで疑問を持って首を突っ込めば、自身もその世界の住人になってしまうか、死んでしまうことを無意識に感じている。だから何もしないのだ。かわりに俊一は、ジャズメンらしく、『レフト・アローン』の演奏で、その世界に対する、疑問や怒りを表現している。このあたりの演奏の変化は、俊一を気に入っている滝川が劇中でしきりに聞いてくるので、一応、重要部分であることは暗に示唆されてはいる。
そうすると、終盤の滝川が単独で、関東連合総長(丹波哲郎)を襲撃するあたりのシーンも納得が行く。このシーンは、両サイドを警察の機動隊と関東連合の組員が囲んでいるのに、誰も止めに入らないのだ。雰囲気の良さだけで押し切っているシーンで、普通に観ればツッコミ所でしかないが、これを俊一が想像した襲撃シーンだと仮定すれば、それはそれで納得がいく。
そうすれば全体の内容が、シーン的な雰囲気の良さばかりに重点を置いた、行き当たりばったりなのも多くの部分で許せるはず。俊一がひょんな事から覗いてしまった異世界の一部シーンを切り取っているだけなのだから、到底人間には理解不能なのだ。逆に100分間、キャバレーというありふれた環境で、オシャレで残酷な空気感しか出さずに押し切ってしまうこの作品の、妙な魅力に気づくことだろう。
とはいっても、これは個人的に同作の監督である角川春樹氏の世界観がそこまで嫌いではないので楽しめる方法だということには触れておく。もちろん角川氏は、本業は映画監督ではない。どちらかというと、『シベリア超特急』を観る時のようなノリが必要かもしれない。他の観方としては豪華キャストがほぼカメオ出演のように登場しているシーンも多いので「ウォーリーを探せ」みたいな要領で楽しむのもありかなあ…。
(斎藤雅道=毎週土曜日に掲載)