趣味がない志村は、仕事終わりでスタッフや共演者を引き連れて飲みにいくことが、唯一の楽しみだ。行くと、おごる。時には、店内にいる全員の分まで、おごる。ある日、飲んでいる人数が計り知れなくなったため、勘定する人間をジャンケンで決めようとなった。みんなが、酔っ払い。このとき、「最初はグーで、な」と音頭を取ったのが、志村。統率するために放ったひとことが、これだったというわけだ。
では、志村は、元来笑いを生みだすタイプの人間だったのか。答えは、否だ。
実父は、学校教員。柔道師範の5段で、厳格を絵に描いたような父親だった。5人家族だが、厳しい父に逆らうことができない環境だったため、家庭内に笑いは、まったくなかった。
高校2年生のとき、テレビで観たコメディ番組に触発され、ザ・ドリフターズにしようか、コント55号にしようか、一方的に加入を考えた。同時期、音楽も好きだったため、このころは歌も楽器もやっていたドリフに決め、いかりや長介の自宅を直撃した。
そのわずか1週間後、ドリフのボウヤ(楽器を持つための弟子)が1人、リタイヤ。18歳の志村は、棚からぼたもち的に付き人になれた。運を味方につけた瞬間だ。
そのわずか1年後(1969年)、伝説の生バラエティ番組『8時だヨ!全員集合』(TBS系)が開始。志村に与えられたお手当は、月に5,000円。当然生活は困窮し、ドリフの残した弁当を盗んで食べては、空腹をしのいだ。
付き人は3年。端から決めていたため、“満期”と同時にドリフの元を離れ、知人とお笑いコンビ「マックボンボン」を結成。『8時だヨ!全員集合』の前説をやっていたが、およそ2年で解散。偶然にもそのころ、ドリフから荒井注(故人)が脱退したため、志村の出戻り加入が許された。
弟子入りから、およそ6年後のことだった−−。(次週へ続く) (伊藤由華)