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関西よしもとの守り神、西川きよし

 今年は、西川きよしの芸能生活50周年だ。本拠地の関西では、記念舞台が上演されるなどして、盛大に祝われている。そこできよしの、おもに“やすきよ時代”を駆け足で振り返っていこう。

 そもそも、きよしが芸能界に入ったのは、貧乏な幼少期に起因する。父親が事業に失敗して、きよしは小学生のころから、牛乳配達などをして、家計を支えた。中学のときに父が体調を壊したため、高校進学を断念。自動車の修理工場で務めた。しかし、仕事中の大やけどで入院。病院のベッドで落ちこんでいたとき、退院したら喜劇役者になって、笑うしかないと決意した。

 1963年、喜劇役者の石井均に弟子入りし、18歳で吉本新喜劇の研究生に。やがて、当時の看板女優だったヘレンと深い関係になったが、周囲は猛反対。そんなときである。愛想を尽かした相方が次々と逃げていき、行き場を見失っていた横山やすしから、「一緒に漫才せぇへんか」と誘われたのは。66年、漫才コンビの横山やすし・西川きよしが誕生した。

 翌67年、上方漫才大賞の新人賞を受賞。ヘレンと結婚したのも、この年である。しかし、3年後の70年、やすしがタクシーの運転手を殴って謹慎。2年半も、活動禁止を余儀なくされた。復活後、ボケとツッコミを替えるや、やすきよが出る劇場は連日、満員となっていた。

 漫才師としてこれからという86年、きよしは参院選に出馬して、トップ当選。89年、漫才をできなくなったストレスから、やすしは飲酒運転で人身事故を起こし、所属していた吉本興業を解雇。その後も酒の量は増え、肝硬変で帰らぬ人になった。96年、やすきよは終幕した。

 現在もきよしは、豪邸を構えている大阪を中心に活動。笑福亭仁鶴、桂文枝とよしもとクリエイティブ・エージェンシーを支える重鎮として、関西の上方演芸をけん引している。(伊藤由華)

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