在校成績はケタ違いのナンバーワン。のちに平間と覇権を争った高原永伍(神奈川)はとてもかなわなかった。競走訓練では子供扱いにされたという。レースぶりは豪快な容貌に似て、競輪人気を高めたスターの一人だった。
競輪だけではない。世界選に出て、初めてスプリントで8位入賞、それが阿部良二(岩手)の銅メダル獲得にもつながっている。
一時、疑惑を持たれて斡旋がとまったこともあった。「限りなくグレー」といわれたが、容疑は晴れて復帰するや、またまた強さを見せつけた。
一番記憶に残っているのは花月園記念だった。レースを1時間後に控えながら、平間は選手売店で大きな桃を2個、ぺろりと平らげていた。通常、選手は競走3時間くらい前から、食べ物は口にしない。そんなことも気にせずレーサーにまたがると、藤巻昇(当時・神奈川)の挑戦を退けて快勝した。「強いや、平間さんは…」と藤巻がかぶとを脱いでいた。
平間が落車事故にあったのは昭和43年のローマの世界選・平塚合宿の時。ヘルメットをかぶらずに、皮のカポックで練習中のことだった。
かつて、平塚競輪場は「魔の3コーナーといわれた」癖のあるバンク。一瞬の油断が平間の命を奪った。平塚共済病院に緊急入院した時には、すでに脳死状態だった。平間の心臓はそれから3日間も動き、肉体の頑健さを見せつけた。
もしも平間がヘルメットをかぶっていたら…としばらくの間は考え続けていた。世界選に一緒に行く予定の伊藤繁(神奈川)のショックはいかばかりだったろうか。悔やまれてならない。
いまでも、平塚と聞くと平間を思い出す。当時、事故はあったものの、スーパースターの死は、今も心の中に残っている。落車した選手が軽い脳震とうを起こして動けない姿を見るたびに「まさか死なないだろうな」と考えてしまう。
平間、高原、そして練習焼けしていつも真っ黒な松川周次郎が争った競走。常に超満員だったスタンド。
そこら中にノミ屋やコーチ屋がいて雑然たる雰囲気の中でも、人をかき分けながら車券を買いに行く楽しさ。1枠から6枠まで分かれた穴場。ぶつかりあったりもしたが、ケンカにはならなかった。
スリも沢山いた。見つかると袋たたきになる。ギャンブル場で人の懐を狙うなんて…とみんな怒りまくったものだ。
競輪全盛期の頃が懐かしい。