本書の「序章」で、著者は、「関ケ原合戦図屏風」に石田家の家紋が描かれていないと指摘している。それは、「徳川家康に配慮して絵師が三成の家紋を故意に描かなかったのだとされている」という。しかし、いっぽうで、江戸時代の複製と考えられる石田三成の肖像画には、家紋が描かれているそうだ。著者は、その肖像画の三成を「横柄な役人タイプでとっつきにくい感じすらする」と評す。
また「序章」では、石田三成の骨から科学復元された顔写真が肖像画とかけ離れていることが指摘されている。本書の本編は5つの章で構成され、「第五章・関ケ原合戦」では、のちの2代将軍徳川秀忠が戦場に遅参したため、徳川本隊を欠いた東軍が、三成が築いた防衛陣地に誘い込まれたと指摘されている。三成ゆかりの石田村を訪れた著者が、村人たちの三成への崇敬を紹介する「終章」で結ばれる。
科学分析による三成の身長は、秀忠と同じく、推定156センチ程とのこと。戦国大名というと、大柄な男というイメージがわくが、現実は必ずしもそうではないようだ。
「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近(さこん)と佐和山の城」と落首された三成の居城・佐和山城は、黄金の茶室や大坂城で知られる豊臣政権の象徴の一つだったことも記されていた。「島の左近」とは三成の家臣・島左近のことだが、「第一章」で、その佐和山城の山頂まで登った著者が、石垣や礎石などの痕跡が何も残っていないことに疑問しており、「終章」で、佐和山城解体と彦根城築城のエピソードが紹介されている。
本書の結末にある石田村の伝承は、我々に、「歴史」というものを考えさせる。(竹内みちまろ)