この「福田後継」には、裏があった。福田は三木退陣を受けての総裁選のとき、「ここは僕がやる。次は君だ」と対立候補たる田中の「盟友」大平正芳に約束、田中も世論が“田中バッシング”が強かったこともあり、田中、そしてその力を借りざるを得ない大平もやむなくこれをのんだということだった。しかし、総理・総裁にして最高権力者のイスに座った福田は、この大平との「密約」を反故にした。これはいかに権力とは魔物であり、一度、手にしたらなかなか手放せないものだという証左でもあった。政権移譲の「密約」などは、戦後政治史上、一度として果たされた試しがない。
ここから田中の“逆襲”が始まり、以後、しばし政権誕生を左右する「キングメーカー」として君臨、「闇将軍」の道を突っ走ることになるのである。
まず、福田をおろして念願の大平を政権の座に就け、その大平が急死すると「本籍・田中派、現住所・大平派」ともっぱらだった鈴木善幸にバトンタッチさせ、その後に首相になりたくて仕方のなかった中曽根康弘を担ぐといった具合だった。鈴木はモロ「鈴木角影内閣」と、中曽根は「田中曽根内閣」とヤユされたが、田中の政権への影響力の強さを指したものであることは言うまでもなかった。
中曽根について、田中は一方で評価はしてたものの「食えない男」、「遠目の富士山。近づけばガレキの山」と口にしたこともあった。田中派の支援を受けて総裁選を圧勝した中曽根は、組閣に当たり“恩”を返すべく田中派から実に7人を登用、自派から出すのが常識とされる官房長官も田中派の後藤田正晴を起用するなど、まさに「田中曽根内閣」としてホロ苦いスタートを切ったものだった。
一方で、「キングメーカー」「闇将軍」の田中は自民党内反主流派の反発を買い続け、しかし、一歩たりとも譲らぬガチンコ勝負で渡り合った。それは、元来、人と争うことが嫌いな大平が福田から政権禅譲の待ち姿勢を取り続けたのに対し、「戦うしかない。勝負だ」と大平のケツをたたいた際にも見られた。
ちなみに、このときの総裁選から、自民党では三木が提案していた「総裁予備選方式」が採用され、まず一般党員による予備選挙で候補者を上位2名に絞り、次の本選で党所属衆参両院議員が投票して選出するということになっていた。当時を取材した党担当記者のこんな証言が残っている。
「この予備選には、大平のほか福田赳夫、中曽根康弘、河本敏夫(元通産相)が立ち、1位大平、2位福田が本選に進んだが、大平の勝利に向け田中のなりふり構わずが目を見張った。自らの強大無比の人脈を生かし、各都道府県の政界、経済界の有力者に“大平支持”懇請の手紙を書いたり、電話をかけまくって票集めに奔走していた。
また、予備選を勝ち上がるためには大票田の東京を制さなければと、選対委員長に指名した後藤田正晴を督励、田中の号令のもとでの一致団結ぶりが知られていた田中派秘書軍団を、戸別訪問などでフル稼働させた。田中の大平勝利への凄まじい執念だった」
勝利した大平は、翌昭和54年9月、よほど自信があったのか福田派など反主流派の反対を押し切って衆院を解散した。
しかし、この選挙期間中に自ら放った「一般消費税導入」発言が響いた形で、自民党は過半数をギリギリ確保するのが精一杯であった。また、ここで福田派など反主流が態度を硬化、「われわれの反対を押し切って解散するからこんなことになった。責任を取るべき」と大平の退陣を要求、首班指名の特別国会直前となっても誰を首班に立てるのか決着はつかなかった。自民党はあわや分裂の一大危機を迎えたのであった。これが、自民党史上に残る権力の争い「40日間抗争」の始まりであった。
一時は、このモメにモメた首班候補は「国会の暴れん坊」ハマコー(浜田幸一衆院議員)の“活躍”で、田中・大平連合が求めていた衆参両院での議員総会開催により、大平が党としての首班候補に指名された。
しかし、一方のこれで収まらぬ反主流派は、別の会合で福田赳夫を首班候補に決定するなど、もはや自民党は1歩も抜け出せぬ泥沼状態となった。
結局、特別国会では自民党から2人の首班候補が名を連ねるという異例の事態となったが、激しい多数派工作のなか、僅差で大平が福田を抑えて首相続投となった。
しかし、主流派vs反主流派の抗争はなお尾を引き、大平は史上初の衆参ダブル選挙を打つことで勝負に出た。「ダブル選で行け。必ず勝てる。政権基盤も固まる」。大平にチエをつけたのは、もとより田中だったのである。(以下、次号)
小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材46年余のベテラン政治評論家。24年間に及ぶ田中角栄研究の第一人者。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書、多数。