水道自在器は水道栓(せん)のネジを開ける専用の鍵の役割をする、水道の蛇口のようなものだ。当時の水道は、各戸に引かれているものはまだ少なく、大抵は近隣の世帯が共同で使用する共同水道だった。共同水道の契約者は、それぞれが水道を使用する際にこの水道自在器を使って栓を開ける必要があった。
水道器具屋というのが鈴を鳴らしながら市内を回り、自在器やホースなどを売った。巻島も水道器具の販売業者で、水道自在器を自分の所で製造して売ろうと考えたのだ。
見本の水道自在器は9個の部品から成る、複雑な構造のものだった。自在器がよく売れるのは夏という話だったので、洋傘の金具の仕事がなくなる時期を埋めるのにちょうどいいと徳次は思った。
芳松の許可が出たので徳次は早速、本所林町の巻島の店に行って相談した。とんとん拍子に話は進み、すぐに自在器の製作にかかった。徳次の作る製品は出来栄えもよく、しかも無理をしても納品日にはきちんと納めたので巻島も大満足だった。
ある日、巻島との間に徳尾錠の話が出た。特許を取ったものの見本を数個製作したままだったのだ。巻島に見せると「面白い」と言って、知り合いの日本橋馬喰町の伊藤ボタンという店に預けてくれた。
しばらくすると、巻島がうれしい知らせを持って来た。徳尾錠の注文だ。それも33グロスという大量注文である。1グロスは12ダースなので396ダース、4752個だ。徳次は巻島に「必ず期日までに納品します」と約束した。