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中畑清政界入りの楽屋裏

 「男・中畑清」が、新党『たちあがれ日本』から比例区で参院選出馬することになったが、人材不足の球界にとっては痛手だし、本人も100%納得してのものではないだろう。

 「巨人でなくてもいい。一度監督をやってみたい」という夢を持っていた中畑氏は、スナックなどでの大好きなカラオケでも「やりたいな、やりたいな」と歌って、女性客を驚かせた。同席していた巨人OBがあわてて釈明。「勘違いしないでください。清は変な意味でいったわけではありませんから。監督をやりたいということですからね」と。
 それだけ執着していた監督業。中でも理想の巨人監督のチャンスは1度だけあった。04年、1年目の堀内恒夫監督が3位に終わったシーズン終了後だった。渡辺恒雄球団会長、滝鼻卓雄オーナーから「堀内監督を助けるために、助監督として入団してほしい」という要請を受けた。次期監督含みでという助監督のポストだった。が、「勝負するなら監督で勝負したい」と言ったことで、巨人監督の道は断たれることになったのだ。
 「まあ、あれで終わったね」と、本人も後日、ぽつりと語っている。巨人以外からもヤクルト、西武、日本ハムと非公式な話はあったが、ついに具体化することはなかった。「巨人ファンの多い札幌を本拠地にする日本ハムがいいじゃないか。得意のマイクパフォーマンスも生かせるぞ」と、前出の巨人OBが勧めたが、「申し訳ないが、日本ハムだけはダメなんだ。男としての筋道が立たない」ときっぱり。巨人のオフィシャルスポンサーの伊藤ハム首脳との親交があったからだ。

 中畑氏が一番残念がったのは、05年から球界に参入した楽天の監督話だった。福島出身の中畑氏は郷土愛が強く、東北に生まれた新球団に強い関心を持っていたからだ。「マスコミに楽天の監督としてオレの名前も出ていたけど、アドバルーンだけだった。残念だったね。本当に話がくれば、前向きに検討したのにね」と、悔しがったものだ。
 指揮を執ったのは、日本代表ヘッドコーチとして、病に倒れた恩師の長嶋茂雄監督の代役になったアテネ五輪本戦だけだった。結果は銅メダル。この時も「あくまで長嶋ジャパンでいきたいので、監督代行としないで、ヘッドコーチの肩書きのままで指揮を執って欲しい」というアマ球界トップの強い意向で「監督代行」の肩書きは与えられなかった。
 監督とは無縁だったが、新天地の政界では義理と人情に厚い「男・中畑清」全開で新境地を開いて欲しい。

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