京都府京都市出身。1963年に府立山城高校を卒業し、早稲田大学第二商学部に入学、翌64年に日本代表に選ばれ東京五輪に出場したが、あまり活躍は見られなかった。だが、68年メキシコ五輪の日本代表に選ばれた時は1人で7得点を上げ、日本の銅メダル獲得に大きく貢献した。
当時の日本代表コーチのデットマール・クラマーや、68年の西ドイツ留学時のユップ・デアヴァルという指導者の元で才能を開花させた。
64年の東京五輪の時はチームメイトでライバルだった杉山隆一(当時三菱重工)の方が釜本よりも有名だったが、釜本にもストライカーとしての才能が芽生え始めており、お互いに切磋琢磨していった。
釜本は得点王といわれただけに右足から繰り出す強力なシュートは世界でも名だたるものだった。とくに右45度からのシュートは正確無比で、そのレベルは、恩師のクラマーをして「世界最高クラス」とまでいわれた。その一方、左足からのシュートは右足ほどではなかったが、正確ではあった。
さらに釜本が世界でマークされたもう一つの理由が跳躍力を生かしたヘディングシュートで、「シュートの5割が右足、3割が左足、そして残り2割が頭」と、あらゆる角度からシュートしてゴールをもたらしたのであった。対戦相手は釜本の突破と右足からの強烈なシュートを警戒、その阻止に神経をすり減らしていた。
85年に現役引退。テレビキャスターなどをしていたが、91年に松下電器産業サッカー部(現ガンバ大阪)の監督に就任。退任後、95年から01年まで参議院議員を務めた。05年には第1回「日本サッカー殿堂」入りを果たした。06年より京都文教大学の客員教授を務める傍ら女子サッカー部のアドバイザーをしている。
◎釜本とコンビで活躍 俊足の杉山隆一
サッカー日本代表の釜本邦茂とのコンビで有名だった杉山隆一は世界中で「20万ドルの足を持つ男」と評判になった。
東京五輪当時は、杉山の方が釜本よりも有名であった。杉山は静岡県清水市(現・静岡市清水区)出身。中学校でサッカーを始め、名門清水東高から明治大学に進学。大学時代に東京五輪の代表に選ばれて活躍し、日本をベスト8へと導いた。
大学を卒業後、八幡製鉄所(現・新日鉄)に入社の予定だったが、入社できず就職浪人することとなった。その就職浪人中に三菱重工に誘われて入社、サッカー部躍進の立役者となった。
68年のメキシコ五輪でも釜本ともに日本代表に選ばれ、銅メダルに輝く快挙を成し遂げた。
当時のサッカーの2大スターとして釜本と比較された。俊足ドリブルを主体とするプレースタイルのため故障が多く、トッププレーヤーとしての選手生命は釜本よりも短かった。
73年に現役を引退後は、ヤマハ発動機のサッカー部監督に就任。日本サッカーリーグ1部のチームに育て上げ、83年の天皇杯を手中にしている。