太平洋戦争の終結から2カ月後の1945(昭和20)年10月のこと。群馬県のとある村に暮らすKさん(84歳)は、山で薪拾いを終え、家へと帰る道すがら、普段は見かけない光景を目にした。何人もの警察官が“おトラさん”という17歳の少女が暮らしていた家の周りの土を掘り起こして、何かを探していたのだった。
「事件なんて滅多に起こらない村だから、何やってんのかなぁって思ったんだ。そうしたら、しばらく経って、おトラさんのことを母親のお龍さんが食べちゃったって聞いて、驚いたんだ
事件を起こしたのは山野朝吉(52歳)の後妻の龍(32歳)だった。彼女は11歳の時に最初の結婚をし、その夫との間に娘に恵まれたが、後に折り合いが悪くなり離婚。その娘を連れ、20歳以上も年が離れた朝吉と再婚したのだった。一方の朝吉にも、前妻との間に長女、次女(トラ)、さらに双子と、4人の子どもがいた。結婚後、夫婦はさらに2人の子どもに恵まれたが、計7人の子どもたちのうち、龍と血が繋がっていない子どもたちは、トラを除いて奉公に出されていた。
ひとつ屋根の下に朝吉夫婦、龍の長女、トラ、朝吉と龍の間にできた2人の子どもという、6人もが暮らす生活。朝吉は土地を持たない日雇い労働者で、一家の生活は傍から見ていても厳しかったという。
一家の経済的な貧しさには、朝吉の性格的な問題も関係していた。朝吉は食い物に困らなければ、日雇いの仕事に出ない墮情なところがあった。また、これは朝吉の次女トラだけが奉公に出されなかった理由でもあるのだが、精神的な障害を抱えていた彼女は人と話すこともままならず、学校にも通えなかったようだ。
当時の新聞報道によると、被害者の父親は「低能」であると書かれている。今ではその真相を知ることはできないが、昭和を代表する小説家・松本清張は、この事件をテーマに『肉鍋を食う女』という小説を書いていて、その中で一家のことをこう記している。《朝吉は少し低能で、怠け者であった。日雇だが、出たり出なかったりした。百姓するにも土地を持たないのである。女房というのは三十三歳だが、朝吉のところへは連れ子をして来ている》
そして1945年10月、食べ物に困窮する一家で事件が起こる。
《巡査はこの家の前でいつもぼんやり佇んでいるトラという娘の姿がないのに気がついた、トラも精神薄弱な上に盗癖がある。年齢は十七だが、身体は大人のように大きかった》(『肉鍋を食う女』より)
村に駐在していた巡査が村人の戸籍調べをするために一軒一軒をまわっていた折、朝吉の家も訪問。その時、トラの姿が見当たらないことに気付いた巡査が、その安否を龍に尋ねた。
「前橋に子守りに出ていて、8月5日の空襲で焼け死んだ」
特に感情の起伏も見せずに龍は言うのだった。もし死んでいるのなら、死亡届が出ているはずだ。しかし、役場の人間は、死亡届は出ていないと言う。不審に思った巡査は、朝吉の近所で聞き込みを開始。すると、トラの姿を半年以上見ていないという答えが返ってきた。これはおかしいと思った巡査が、再び龍のもとを訪れて問いただすと、次第に証言が変わっていった。
「トラは病気で死んで、庭に埋めた」
不審に思った巡査により龍と朝吉は警察に呼び出され、ついに尋問を受けることになった。すると、はじめは食い物がなくて栄養失調で死んだと言っていた龍だったが、ぽつりと洩らしたのだった。
「食っちゃった」
1945年3月26日ーー。近所の家から米や麦、サツマイモなどを恵んでもらったりしながら日々をしのいでいた朝吉一家であったが、その日ついに食べるものがなくなった。囲炉裏に吊るされていた空っぽの鍋を前に、4人の子どもたちは腹が空いたと泣き叫んだ。
龍は日頃から、自分の血を分けた前夫との間にできた長女、そして朝吉との間にできた2人の子どもには目をかけてきたものの、常々トラにはきつく当ってきた。日々満足に食えない中で、トラは身体が大きく人一倍大飯を食らうことも、彼女には我慢ならないことだった。
「この子さえいなければ、“私”の子どもたちは腹を満たせるーー」
龍はトラ以外の子どもたちを外へ遊びに行かせると、腹が減って寝転がっていたトラに襲いかかった。背後から首を絞め上げトラを絶命させると、首と四肢を鋸で切断。肉を包丁で切り刻み、空っぽだった囲炉裏の鍋に入れて肉鍋を作ったのである。頭と手首、足先や内臓などは、庭に埋めた。
普段、肉などほとんど口にしたことのなかった子どもたちは、鍋に入った肉片を、歓喜しながらたいらげた。しかし、日雇の仕事を終えて戻ってきた朝吉だけは、それが何の肉か悟っていたのか、ひと口も箸をつけなかったという。
龍は事件発覚後に逮捕され、実刑判決を受けた。朝吉と残された子どもたちは、その後も村で暮らしていたという。
朝吉一家の近所に暮らしていたKさんが言う。
「今はゲートボール場になっているところに、朝吉さんの家があったんだ。どこの家も、戦争中は自分で作ったイモでもなんでも供出しなければならなかったから、生活は厳しかった。土地がなかった朝吉さんのところは、さらに大変だったと思うよ。当時は村で、龍さんがトラを食ったなんて悪く言う人もいたけれど、みんな他人事じゃなかった。食事にサツマイモが一本出ればごちそうの時代だったんだよ」
朝吉一家はまさに一日一日を生き抜くために必死だったわけだ。そう考えると、本意ではなかっただろうが、トラは己の身を犠牲にして、幼い兄弟の命を救ったことになる。
人肉を食べるという行為は、飽食の現代から見るとショッキング極まりないことだ。しかし、当時の時代背景を冷静に考えてみると、どこの場所で起きてもおかしくはなかったのかもしれない。それは、村人たちの誰もが朝吉や龍を責めない態度に表れているように思えた。
朝吉一家は事件後も村に住み続け、つい数年前に朝吉と龍の間にできた息子が亡くなるまで暮らし続けていた。刑務所から出た龍は下仁田市内の寺に引き取られ、そこで生活していたという。
一家が暮らした家があったところから目と鼻の先に、朝吉が眠る墓があるというので、訪ねてみることにした。つい最近に建てられたと思われる真新しい墓には、朝吉の名前が刻まれていた。ただ、その墓誌には、人身御供となったトラの名前は刻まれていなかった……。