とはいえ、結城財宝はたとえ千分の1でも大したものだ。300キロの黄金は、純金とした場合、約13億円に相当する。
奥州平泉の藤原氏の黄金をルーツとするこの伝説が、引きも切らずマニアを北関東の地に呼び寄せるのは、単に金額の大きさからだけではない。埋蔵のいきさつを考えれば、それなりに信ぴょう性も高いとみられるからだ。結城市や小山市、下野市、さらに範囲を筑西市まで広げてもさほど広い地域ではないにもかかわらず、財宝埋蔵の主導者である結城晴朝にゆかりのある場所は実に多い。そのことが埋蔵場所の特定の難しさにつながっているようだ。
では、結城城址の東南約300メートルのところにある羽黒熊野神社は、一体どれくらいの期待が持てるのだろうか。現段階では何ともいえないが、時代的な整合性だけはある。
かつては羽黒神社と熊野神社は別々だったようで、『茨城県神社誌』の記述を見ると、もともとここにあったのは羽黒神社で、室町時代の応永年間(1394〜1427年)に出羽から分霊した。晴朝のころにはちゃんと存在していたわけだ。明治の終わりごろ、ほかの場所にあった村社の熊野神社を合併させている。
昨年の10月半ば過ぎ、筆者はテレビ番組のディレクターとともに結城へ向かった。車にナビは付いていないが、5年前の記憶は確かで、細い道を迷わず現地にたどり着くことができた。
神社の駐車場にゴミ収集車が停まっていて、中で運転手が居眠りしているのが見えた。ちょうど昼時だったから、静かなところを選んで休んでいたのだろう。それほどに人気がなく、ひっそりとしたところなのである。
誰もいないのを幸いとばかり境内に入り、一通り見て回った。問題の砂場の跡のようなところは集会所の脇にある。そこを踏みしめ、奥へ進み、小さな拝殿の前に来たとき、筆者は「あっ」と息をのんだ。5年前に来たときに見落としていたものだった。石塔の台座の石に、はっきりと“宝”の文字が彫られていたのだ。
「なんだこれは!」
心臓がバクバクした。“宝”の文字は丸で囲まれ、富士山と思われる山の形の中に収まっている。しかし、心を落ち着けてじっと観察すると、文字はとても400年以上前のものとは思えない。鮮やかすぎる。それに、このようなストレートな表現をするはずもない。
周辺を細かく調べた結果、財宝とは全く関係がないことがわかった。“明治34年”の文字も読み取れたし、どうやら村民の相互扶助を目的として組織した『講』の記念に建てたものらしい。似たものを小山市の某所で見たことがある。
筆者はその場から滋賀県大津市に住む探査機会社の肱岡氏に電話をかけた。まず“宝”の文字のことを話すと、「私も最初はびっくりしましたよ」と笑っていた。その後、探査機をかけたときの模様をいくらか思い出したようで、神社と関係の深い『とうごう家』というところがあり、その家の井戸さらいをしたときに、底から小判が見つかったことが郷土史にも載っているとのことだった。
しかし、それは伝説とは無関係だ。結城の宝は小判などではない。小判が作られるずっと前の時代の金塊と砂金である。
そして、データ画像から何らかの金属が埋まっていることは明らかであり、もう一度別の探査機で金属の種類を識別してみたいと言うのだった。
筆者もぜひその機会をつくりたいと考え、地元との交渉を開始することにした。今回の調査の発案者であるT氏から、神社の南側にある邸宅の主が、この辺りでは最も発言力があるようだと聞いていたので、思い切って訪ねてみた。
主は体調が悪いと言いながら、話し出したら止まらない人で、神社は地元民で管理しているわけではなく、市の中心部にある健田須賀神社が、市内のすべての神社を統括管理しているという話を聞き出した。
そこで同社を訪ねたのだが、あいにく宮司が不在で、女性の職員に趣旨を説明し、翌日電話で返事を聞くことにした。結果を言うと、交渉は不調に終わり、まだ羽黒熊野神社に探査機をかけさせてもらう許可は下りていない。
地元出身のT氏は、何かコネクションがあるようで、可能性を口にしているし、もう少し粘り強く交渉を続けていくつもりだ。
(完)
トレジャーハンター・八重野充弘
(やえのみつひろ)=1947年熊本市生まれ。日本各地に眠る埋蔵金を求め、全国を駆け回って40年を誇るトレジャーハンターの第一人者。1978年『日本トレジャーハンティングクラブ』を結成し代表を務める。作家・科学ジャーナリスト。