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天下の猛妻 -秘録・総理夫人伝- 岸信介・良子夫人(上)

 男にとって、「良妻」の条件とは何だろう。
 男はしばしば、こんな“夢”を見る。子供の教育をよくし、家庭をしっかり守って外で働く亭主に余計な神経を使わせない。亭主の女性問題が発覚しても、決して大騒ぎをしない。何事も「亭主の好きな赤烏帽子」で、ハイ、ハイ、分かりましたと従ってくれる――。
 そんな、今の世なら、まずあり得ない“夢”を、“正夢”にしてしまったのが「超短命内閣」、石橋湛山のあと首相の座に就いた岸信介であった。現首相の安倍晋三の祖父である。
 岸の実弟はのちに首相の座に就き、憲政史上“初の兄弟首相”として知られる佐藤栄作である。岸は旧制山口中学3年生のとき、父の実兄・岸信政の養子となり、その信政の長女・良子と結婚した。
 良子は実践女学校を卒業すると、東京帝国大学法学部在学中だった岸と結婚を前提に同棲したということだった。

 岸夫妻を知る関係者のこんな証言が残っている。
 「良子夫人はガサツな岸とは裏腹で、しとやかでやや引っ込み思案の性格だった。岸家に人が来ると客とペラペラやることもなく、座敷の隅に座ったまま両手を膝の上に重ね、問われたことだけを答えるような女性だった。首相になる前の岸は、これをいいことに養子のくせにやりたい放題だった。仕事が忙しいとして、定時に家に帰ることはほとんどなく、カネは使うし、女遊びもまたハデだった。それでも、目くじら一つ立てないのが良子夫人だった」

 太平洋戦争が終戦を迎えたあと、岸は故郷の山口県田布施に身を置いた。しかし、東条英機内閣で44歳の若さで商工大臣のポストにあったことで戦犯とされ、そこへGHQ(連合国軍総司令部)から出た逮捕状を、県の警察部長が持ってきた。良子は東京へ引かれていく岸を見送ったが、涙一つこぼさずだった。
 「冷たいのではなく、良子夫人は『“戦地”に送り出すとの思いだった』と、のちに語っていた」(前出・岸家を知る関係者)

 その岸はA級戦犯として、3年3カ月を東京・巣鴨の拘置所に収容された。人間、位階勲等を取り上げてしまうと、素の姿が見える。元大臣・元大将もさすがに「巣鴨プリズン」では多くが意気消沈、“青菜に塩”の体であった。その中でケロリと元気のよかったのが岸、もう1人がのちに日本船舶振興会会長としてラツ腕を振るうことになる笹川良一だった。
 笹川はプカプカ、ドンドンの楽隊に送られて“巣鴨入り”した男であり、むしろ獄中生活を楽しんでいるといった風情であったと言われている。その笹川をつかまえて、ある日、岸はこうこぼしたのだった。
 「わしは、毎晩イチモツが隆起して困っている。1週間に一度は夢精する。その洗濯がつらくてね。なんとかならんものだろうか」
 笹川も、女性の嫌いなほうではない。戦時中は「東洋のマタハリ」と言われた美貌の川島芳子との付き合いもあった男である。しかし、巣鴨では、もとより“聖人君子”で通していた。笹川は自分より3歳年上の岸のそんな言葉に、さすがに「参った」としてカブトを脱いだというエピソードがある。

 生前の岸と親しかった政治評論家の今井久夫は、岸の「巣鴨プリズン」出所時の話を次のように記している。
 「(出所とともに)田布施に飛んで帰った岸は、その晩、良子を寝かせなかったという噂が流れた。田布施の古い家は、かなり震動したに違いない。その晩の夫婦和合の回数が、とんでもない数字になって友人間の話のタネになった」(『月刊ペン』昭和55年10月号)
 ここでは“心技体”亭主操縦術にたけた良子の「良妻」ぶりが浮き上がるが、一方、その後の岸の政治家としての豪胆ぶりもまた窺えるのである。

 岸内閣で誰もが思い出すのは、旧日米安保条約を改定した新安保条約成立の際の「60年安保騒動」である。
 岸首相は、吉田茂元首相がやむなく選択した「日本の安全保障をすべて米国の意にゆだねる」ことからの脱却を目指して政権をスタートさせている。このままでは米国の一州にすぎず、独立国とは言えない、との思いからの新安保条約である。日米対等のものとして、以後の国際社会の一員たるを目指した。ために、岸にとっては新安保条約は譲れない一線だった。
 首相官邸、国会周辺には岸内閣打倒をスローガンにデモ隊の波が連日押し寄せ、世情は騒然としていた。新安保条約が自然成立した昭和35年(1960年)6月19日、岸首相と実弟の佐藤栄作大蔵大臣の2人は命の覚悟を決め、デモ隊に包囲された官邸の中で一夜を徹したのである。
 岸をしての“代名詞”に、「昭和の妖怪」という言葉が残っている。「妖怪」の妻は、押して知るべしのタイヘンな一生を送ったのである。=敬称略=
(この項つづく)

小林吉弥(こばやしきちや)
早大卒。永田町取材48年余のベテラン政治評論家。抜群の政局・選挙分析で定評がある。著書に『決定版 田中角栄名語録』(セブン&アイ出版)、『21世紀リーダー候補の真贋』(読売新聞社)など多数。

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