「親しい知人などには先に報告したと聞いています」(スポーツ紙記者)
「松坂引退」の一報が入ったのは、各地でのナイトゲームが終わった頃。西武は旭川遠征に出ていたため、“伝聞”で知ったメディアも少なくなかった。旭川に帯同した側も詳しいことが分からず、各々が“個別ルート”を使って事実確認を行った。
その確認作業の過程で分かったこともある。球団職員、現場スタッフ、選手たちの中には知らなかった者もいた。辻発彦監督は知らされていたとは思うが、松坂本人から直接連絡があったのかどうかは疑問だ。
>>西武・松坂、ソフトB・工藤監督のおかげで命拾い? 渡辺GMがリスク覚悟の残留を決断したワケは<<
しかし、それは良い意味で、西武は“選手寄りの球団”になった証でもある。
「松坂のチーム帰還を決め、各方面に調整を付けたのが渡辺久信ゼネラルマネージャー(以下=GM)です」(球界関係者)
渡辺GMが理想とするチーム像は、選手を大切にすること。功労者に対しては特にそうであり、フリーエージェント権を行使して退団した選手も帰還させ、西武で引退させてやりたいと考えていた。その第一号は現ソフトバンクの工藤公康監督である。
「それまでの西武は退団したら、それで全ての関係も切ってしまうような感じでした。そういう雰囲気を一掃し、チーム功労者を呼び戻し、現役を続けたいというのなら、トコトンまでやらせてやりたい、と」(前出・同)
松坂は自分自身で進退について考え、結論を出すことができたということだろう。プロ野球選手の多くは球団から「戦力外」を通告されて、現役生活を退く。その意味では、松坂は幸せなプロ野球人生を送れたようだ。
また、「今季限り」ということは、ペナントレース終盤のどこかで引退セレモニーも行われるのだろう。しかし、こんな声も聞かれた。
「松坂は米国での永住権を取得しています。指導者として球団には残らないと思われます。あれだけのビッグネームなので、アドバイザーのような肩書を与え、名目だけでも球団に残ってもらうのではないか」(前出・同)
古巣帰還のために尽力してくれた渡辺GM、そして、ファンのためにも西武球団に残るべきである。
1998年、夏の甲子園大会で松坂と対戦した選手がこんなことを語っていた。
「直球だと思ってバットを振ったら、次の瞬間、視界からボールが消え、左太股に直撃していました。あんな凄い曲がり方をしたスライダーは初めて見た」
五輪、WBCなど国際試合で見せた圧倒的なピッチングも思い出される。国際舞台で強かった平成の怪物が五輪イヤーに引退を決意したのも、何かの巡り合わせだろう。(スポーツライター・飯山満)