同戦で解説を務めていた江夏氏は3回裏に中田が負傷交代した際、「(痛めたのは)右の腰ですかねえ…」と心配した実況の横で、「100%練習不足(のせい)。普段から全力疾走していないからですよ」とコメント。負傷交代は自業自得だと中田に苦言を呈した。
中田が5月17日~6月3日にかけ二軍で調整に励み一軍復帰を果たしたばかりだったこともあり、ネット上には「やっとの思いで復帰したばかりの選手に言うことではない」、「もう二度と解説聞きたくない」といった苦言や批判が相次いだ、一方、「昔口の悪さで苦しんだことを忘れたのか」、「現役時代の失言みたいにこの後干されたらいいのに」というコメントも挙がった。
>>元阪神・江夏氏に「二度と解説聞きたくない」ファン激怒 負傷交代の中田を「練習不足」と切り捨て批判相次ぐ<<
現在73歳の江夏氏は現役時代に阪神(1967-1975)、南海(1976-1977)、広島(1978-1980)、日本ハム(1981-1983)、西武(1984)でプレーし、「829登板・206勝158敗193セーブ・防御率2.49」と名球会入りを果たしている投手。しかし、その現役生活は不用意な失言をきっかけに終了に追い込まれている。
江夏氏の口から問題発言が飛び出たのは、当時プロ18年目・36歳だった1984年5月。当時大阪遠征中だったチームは、滞在先のホテルで西武本社の幹部も交えた朝食会を開催。ただ、当時の広岡達朗監督が選手の食生活管理を徹底していたこともあり、テーブルには玄米や豆乳といった自然食が並んだという。
席がたまたま広岡監督の隣だった江夏氏は「監督はこんな玄米を食べてるのになんで痛風なの?」と質問。江夏氏は痛風持ちだった広岡監督が、なぜ食生活を徹底しているのに発症したのか不思議に思って聞いたというが、広岡監督はこの質問に気分を害して席を立ってしまったという。
すると、江夏氏は大阪遠征が終わった直後に突然二軍に落とされ、その後シーズン終了まで一軍から声はかからず。広岡監督から完全に干された形となった江夏氏は大いに失望し、同年オフに西武に退団を申し入れそのまま現役引退を表明した。
引退後の江夏氏は名球会などの計らいで翌1985年1月に行われた引退試合に臨み、その場でMLB挑戦の意思を表明。実際に同年3月にブルワーズの春季キャンプに参加し開幕ロースター入りまであと一歩に迫るも、36歳という年齢もネックとなりメジャー昇格はならず、同年4月に帰国し完全に引退した。
食事の席での失言が引退の引き金となった形の江夏氏だが、広岡監督にここまで問題視されたのは西武入団の経緯も関係しているとされている。江夏氏は1983年12月に柴田保光、木村広との交換トレードで日本ハムから西武にトレード移籍したが、広岡監督はこのトレードを知らされていなかったため、若手投手2名を勝手に放出された原因になった江夏氏を加入当初から煙たがっていたという。
なお、後年の江夏氏はメディアのインタビューなどで度々西武時代を振り返っているが、広岡監督に対しては「人間的に許せないところがあった」、「日ハムから西武へトレードになったのが運の尽き」、「練習中に帽子をかぶれ、ストッキングを履け(と常々言われた)。学生野球じゃねえぞこのバカ野郎」と溝の深さを感じさせるコメントを口にしている。
広岡監督への失言からは、今年で約37年が経過している江夏氏。ただ、歯に衣着せぬ物言いは当時からほとんど変わっていないのかもしれない。
文 / 柴田雅人