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新日本・全日本・WWF合同興行『日米レスリングサミット』から30年!プロレス界が変わった日

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坂口征二氏

 今年の4月13日で、1990年4月13日に東京ドームで開催された新日本プロレス、全日本プロレス、WWF(現WWE)による最初で最後の合同興行『日米レスリングサミット』から30年の月日が経過した。

 1989年に日本進出を狙っていたWWFビンス・マクマホン社長(現・会長)の動きを察知した全日本のジャイアント馬場社長(当時、故人)が、WWFと交渉。馬場氏が新日本の中で唯一「信用できる」としていた坂口征二社長(当時)に協力を要請する形で、当時でもあり得ない日米3大メジャー団体による合同興行が実現した。坂口氏は後日、「売り上げは折半でウチにとっては良かった」と大会を振り返っているが、この大会は、アリーナの図面を新日本が担当。マッチメイクは馬場氏がWWFと交渉し、リングの提供や、パンフレットは全日本が制作している。テレビ中継は当時、全日本と独占契約していた日本テレビ系列が放送したため、テレビ朝日と独占契約を結んでいる新日本勢の試合中継は行われないこともあり、新日本からは長州力、マサ斎藤(故人)、橋本真也(故人)、蝶野正洋、獣神サンダー・ライガー、野上彰(現AKIRA)が出場しているが、WWFのトップ選手との対戦が見送られたため、現場監督だった長州の意向で、橋本&マサ 対 長州&蝶野のIWGPタッグ選手権試合、ライガー 対 野上のスペシャルマッチ2試合を提供するに留まっている。

 大会に向けてビンス氏が来日した際、全日本の東京・後楽園ホール大会で挨拶をしているが、散々WWFに外国人選手を引き抜かれていることもあり、当時のファンからビンスアレルギーにより大ブーイングを浴びている。その来日の際、図面を見たビンス氏は「ユーたちはベースボールスタジアムを分かってない」とバッサリ斬ると、「ミスターババはピッチャーじゃないのか?ベースボールスタジアムはマウンドが見えるように作られてるんだ」と、セカンドベース付近にあったリングをマウンド上に変更させたのだ。
 
 日本の団体関係者によると、ビンス氏のこの要求に関しては、マッチメイクなどで「NO!」と言い続けていた馬場氏も日本のスタッフも、この発言には何も言い返せなかったそうで、馬場氏存命中に開催された全日本の東京ドーム大会でセンターからの一本花道を作らなかったのは、予算の問題だけではなく、ベンチからマウンドに向かいたい馬場氏の意向も反映されていたのである。また大会では、WWF方式のリングアナウンサーによるコールが初めて行われ、今ではこの時から採用された入場時コールが各団体当たり前のようになった。他にも試合後、勝者のテーマ曲が流れるようになったのも、この大会が初めて。新日本と全日本は以降、このスタイルを導入し現在に至っている。

 13日の金曜日に開催されたこの大会は、メインカードが直前まで縺れて、最終的にはハルク・ホーガン 対 スタン・ハンセンのドリームマッチが実現。53,742人を動員した。同年、WWFはメガネスーパーが旗揚げした新団体SWSと業務提携。2000年代に入り、単独で日本公演を開催するようになった。30年経った今でも、映像を見ると新鮮さを感じることが出来る。当事者だった坂口氏とビンス氏が健在のうちに、いつの日かまたこのようなプロレスワールドオールスター戦を実現させてもらいたい。

※文中一部敬称略

(どら増田)

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