稀代の予言者、出口王仁三郎(本名・上田善三郎)は、1871年に京都府亀岡市で生まれた。2011年の今年は140年目に当たり、これを機会に王仁三郎を再考しようとする動きがある。幼き頃から神童としてならし、青年時代は侠客(きょうかく)の中に身を置き、瀕死体験を経てからは心眼が開き、天狗と呼ばれる人物と共に高熊山で修行に励んだ。人を驚嘆させる能力と、他人を食ったような言動で多くの人を引き付け、政界や財界さえも動かした王仁三郎。近代日本の宗教家の中で最も異彩を放った怪人であり、巨人であった。彼は明治以降に生まれた新派神道「大本」を率い世界的宗教団体に育て上げるのだが、恐るべき「予言」の能力を駆使して、世間を震撼させた。
現在、複数に分かれている「大本」は、もともとは出口ナオを開祖としている。貧困な家庭に育ったナオは、もともと熱心な金光教布教者であったが、満足に文字が書けないような教育レベルであった。だが、1892年のある日、突如「お筆先」という現象が起きる。ナオの持つ筆に”丑寅の金神(うしとらのこんじん)”が降臨し、数々の神示を示し始めたのだ。神々の手によって、古代に鬼門の邦楽に封印された“丑寅の金神”が降臨し、曲がった世の立て直しに取り組み始めたのだ。
そんな中、神の導きで上田(後の王仁三郎)が大本を訪問。実直な性格のナオは、豪放磊落(ごうほうらいらく)な王仁三郎の行動に戸惑いの気持ちを抱きつつも、アマテラスとスサノオのように引き合いながら大本を二人三脚で大きくしていった。
その後、王仁三郎はナオの娘・澄と結婚し、上田姓から出口に改め、実質的な大本の指導者となり、『大本神論』や『霊界物語』を著し、勢力を伸ばしていく。特に『瑞能神歌』と『続・瑞能神歌』は、重要である。『続・瑞能神歌』は多くの王仁三郎研究家によって『日月神示』との関連性を指摘されているのだ。
霊的には現代よりはるかにレベルが高いと言われている戦前の日本でさえ、王仁三郎は「体主霊従」(肉体が主体で、魂がそれに従っている状態)であるとこれを悲嘆し、日本人が本来持っていた「霊主体従」という正統な姿に戻したいと願っていたのである。
多くの人々の耳目を集めた王仁三郎の予言は、驚異的な的中率を誇った。これら一連の予言は、神道でよく唱えられる雛型思想に裏打ちされている。つまり、王仁三郎は、天界で起きることが人間界で起こり、人間界においては大本で起こることが日本で起きる、さらに日本で起きることは全世界に起こると説いているのだ。この流れを「三段の型」と呼び、王仁三郎の霊的な予言はこれをもとに行われることが多い。
「霊界物語」をはじめとした著作や、王仁三郎の霊的な予言の詳細についてはまたの機会に譲ろう。
(山口敏太郎)