我らが巨人軍のキャンプ地といえば宮崎! …と相場が決まっていそうなものだが、その昔、宮崎以外にも巨人史上に語り継がれるキャンプ地がいくつか存在した。しかも、それらのキャンプが後の黄金時代のきっかけとなっているのである。
今回はジャイアンツの、宮崎以外の記録にも記憶にも残るキャンプ地についてのおさらいをしようと思う。
■茂林寺
群馬県館林市に所在する曹洞宗のお寺。その近くにある分福球場がキャンプ地である。この場所でキャンプが行われたのは非常に古く、まだ巨人軍が結成された直後といっていい時期である。
1934年暮れに結成された巨人軍は、35年2月から行われた第1次アメリカ遠征で109試合中75勝33敗1分。36年2月から行われた第2次アメリカ遠征でも、76試合中42勝33敗1分という好成績を残して帰国したが、これにより巨人軍の選手たちは慢心し、その結果、日本国内の職業野球リーグの36年度夏季大会において、2勝5敗という散々な結果に終わってしまう。
この結果に危機感を抱いた藤本定義監督が急遽行ったのが、この茂林寺キャンプなのである。
特に一番の若手だった遊撃手の白石勝巳が徹底的に鍛え上げられ、文字通りの千本ノックが行われたという。それを見た、あの沢村栄治ら投手陣も気を引き締められたらしい。
その成果で、巨人軍は36年度秋季リーグで大阪タイガース(現・阪神)を破り初代チャンピオンとなり(36年度夏季リーグは優勝チームを定めず)、その後も戦前における第1期黄金時代を築いていったのである。
■ベロビーチ
アメリカ合衆国フロリダ州に所在。1961年、巨人の新監督に就任した川上哲治の提案で、当時この地をキャンプ地としていた、大リーグのロサンゼルス・ドジャースと合同で行われたキャンプである。
川上は、当時戦力としては大リーグ全体の中で乏しい方だったドジャースが何故か毎年優勝争いを繰り広げていることに注目し、ドジャースと合同で巨人のキャンプを行うことに決めたのである。
そしてドジャースの強さの秘密であるサインプレーを吸収し、早速巨人でも実践した。当時、日本球界ではサインプレーが徹底しておらず、ほとんどの場合、選手が個々にプレーしていたが、このベロビーチでのドジャースとの合同キャンプがきっかけで、巨人が日本球界でいち早くサインプレーによって1点を守り勝つ組織野球=通称ドジャース戦法を実践し、これにより、65〜73年までの栄光のV9を達成したのである。
その後も巨人は、昭和の時代の間は何度かベロビーチキャンプを行っていたが、現在は本家ドジャースも2008年を最後にキャンプ地をベロビーチからアリゾナ州に移転してしまっている。ロサンゼルスに移転前のニューヨーク・ブルックリンを本拠地にしていた時代から60年以上もドジャースといえばベロビーチをキャンプ地としていたので、少し寂しい話ではある。
■伊東
有名な話なので、知っている方もいるかもしれない。静岡県伊豆半島にある、ハトヤでお馴染みの、あの伊東である。
こちらは春季キャンプではなく、シーズン終了直後に行われた秋季キャンプとなる。このキャンプが行われた1979年は長嶋茂雄監督「第1期目」の就任5年目のシーズンだったが、V9や76〜77年の優勝を支えた主力選手の衰えが眼に見えて顕著となり、5位に沈んでしまう。
新たなる世代の主力選手の育成が必要と感じた長嶋が、当時の若手の選手を参加させて行ったキャンプなのである。
このキャンプは現在でも巨人ファンの間で「伝説の伊東キャンプ」と呼ばれるほど、その内容はすさまじく、一日の練習が終わった後は、選手はみんな自力で歩くことができないほど体がボロボロとなり、食事も吐き出してしまうほどだったらしい。
特に「青い稲妻」の異名を持つ松本匡史は、スイッチヒッターに転向するためのバッティング練習の途中で、何度も涙を流し、それどころか一説によると血も流していたという説すらある。
結局、迎えた翌年の80年シーズンも巨人は3位に終わり、巨人史上初の3年連続V逸となり、その責任を問われ長嶋監督は解任されるが、この伊東キャンプが確かに成果のあるものだった証拠として、キャンプに参加していた中畑、篠塚、江川、西本、そして前述の松本といった数多くの選手たちが、80年代の巨人を語るに欠かせない主力選手に成長している。
このように、宮崎以外にも数多くのキャンプ地で、今も語り継がれる伝説を作ってきた巨人軍。今年も春季キャンプで鍛え上げて、V奪還を期待したいところである。
文中・敬称略
年号は西暦で統一
(野球狂のアキバ系 伊藤博樹 山口敏太郎事務所)