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スポーツ 2007年10月10日 15時00分
DEEP 新妻しなしさとこ復活の陰に地獄の特訓
9日の「DEEP32IMPACT」(東京・後楽園ホール)で、およそ10カ月ぶりに“格闘技の女王”しなしさとこが復活。新鋭SACHIを相手に快勝した。見事な復活劇を演じたしなしは、ブランクを乗り越えるため、“地獄の特訓”を行っていた。 今年7月から再始動したしなしは都内のDEEP道場で青木真也、長谷川秀彦らと週5日2時間の猛特訓。連日のスパーリングでは「毎日、ボコボコ」と男子相手に技が通じず悔し涙の日々で「やられっぱなしだったので、今回の試合も勝てるイメージが湧かなかった」というほどのハードな練習をこなしてきた。 そのかいもあって、この日のしなしは相手に付け入る隙を与えずの完勝劇で健在ぶりを見せつけた。試合後のリング上では「結婚することになりました!」と発表。私生活の充実ぶりも明かした。 人生の伴侶を得て順風満帆のしなしが狙うはもちろんベルトだが、「唯一の失敗である久江とのストーリーの方が強い」と唯一の敗戦を喫したライバル、渡辺久江との再戦を強く望んでいた。 地獄の特訓を乗り越えた“新妻”しなしが再び走り始めた。
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芸能 2007年10月10日 15時00分
船越英一郎・松居一代夫妻に離婚危機説
おしどり夫婦として知られる船越英一郎(47)、松居一代(50)に離婚危機説が出ている。先ごろ、ある怪文書がマスコミ関係者に流れたからなのだが…。 この怪文書には2人の離婚危機が詳細に書き綴られている。 「家の鍵はセコムのオートロックテンキーですが、松居さんはケンカすると船越さんが仕事に行っている間にナンバーを変えてしまい、船越さんを締め出すんです。“ここは私のお金で立てた家よ、あんたは同居人なんだから私に逆らうなら出て行きなさい”と言うのです。船越さんは都内のホテルを泊まり歩いてます」 芸能界一のお掃除名人といわれ、関連本はベストセラーの松居一代。一時はカリスマとして女性誌などによく取り上げられていたが、最近はその活躍ぶりがみられなくなってしまった。そのきっかけは8月中旬に起きたある事件だった。 「4年間勤めていたフィリピン女性の家政婦を殴打してパトカーまで出動したことが、一部女性誌に報じられたんです。それにより、お掃除名人のはずが、自宅の掃除は家政婦に任せっきりだったことがバレてしまったわけです。船越がドラマ収録のときは必ず手作り弁当を持たせるとノロケていたのに、実際は家政婦に作らせていたんですから、それまでファンだった主婦層の信頼が一気に落ちてしまいました」(芸能ライター) そんな報道の直後から問題の怪文書が出回り始めたのだ。 「スタッフか身内の人間が書いているようなリアリティーがある。船越が恐妻家なのは有名ですが、怪文書のように、そこまで尻にしかれているとなると異常です」 怪文書では松居の親族への冷たい態度、シビアな金銭感覚、そして脱税疑惑にも触れている。今年3月になくなった船越の父親で往年の映画スター・船越英二さんが2人の結婚に最後まで反対していたため、船越の妹が親の面倒を見ていたのだが、「怪文書では、数年前からうつ病になっているその義妹に対し、“だいたいうつ病なんて苦労知らずのお嬢さんがなるのよ”と言ったり、義妹が自身の闘病生活を小説にしたことを“あんなの子どもの作文よ”と嘲笑しているというんです」(同) 2人の今後に異変はあるのか。注目される。
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芸能 2007年10月10日 15時00分
「青いドレスの女」になった檀れい
女優・檀れい(36)が9日、東京・上野の東京美術館で、イメージキャラクターを務める「フィラデルフィア美術館展」(10日〜12月24日)をPRした。 檀は日本初公開となるマティス「青いドレスの女」で描かれた女性と同じ衣装で登場。宝塚歌劇退団後、久々となるドレス姿に「朝からワクワクしていました。きゅっと背筋が伸びる」と笑顔を見せた。 また、ウエディングドレスを着る予定は?と聞かれると「今はありません。相手がいませんから」と苦笑。しかし、先月、結婚式を挙げた大地真央については「(宝塚の)後輩としてうれしい。お仕事でもとても輝いていらっしゃるので、私もそういう女性になりたい」と話していた。(写真=青いドレスを着て登場した檀れい)
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芸能 2007年10月10日 15時00分
映画「人のセックスを笑うな」舞台あいさつ
女優・永作博美(36)、俳優・松山ケンイチ(22)らが9日、都内で行われた映画「人のセックスを笑うな」(08年公開、井口奈己監督)の完成披露試写会で、舞台あいさつした。 劇中では19歳の純朴な美大生・みるめ(松山)が39歳の美大の非常勤講師・ユリ(永作)に恋心を抱くが、松山は「永作さんが演じたユリに本当に恋愛感情を持ってしまった。永作さんはすごく色っぽくて笑顔がステキ。顔が近づけば近づくほど、笑顔が自分だけのものになる。僕の宝物」とべたぼめ。 一方の永作も照れながら「楽しめた」と答えていた。(写真=舞台あいさつを行った(左から)蒼井優、松山ケンイチ、永作博美、忍成修吾)
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社会 2007年10月10日 15時00分
「1円パチンコ」ブーム到来の裏事情
パチンコの射倖性が高まる中、まさか!の1円パチンコブームが到来した。従来4円だった貸玉料は75%オフの1円で、軍資金の少ないファンでも勝負できる。ブームの裏側を追跡した。 1玉4円で借りて遊ぶのがパチンコ。これを1円で借りられるわけだからファンにはお得だ。しかし、ホール経営はそれで成り立つのだろうか? 業界誌関係者は「パチンコ業界のデノミ(通貨単位切り下げ)ですよ。ホール側は4円で貸して2〜3円で買い取ればもうかるけど、4円で買い取るならば1円で貸して1円で買い取っても変わらない。一部大手チェーンを除くホールはどこも経営が苦しいのが実情で、ファン離れを引き止める“最後の切り札”をいよいよ切らざるを得なくなった」と解説する。 ひと昔前なら換金率2.5円が相場だったが、最近は3店方式(景品買取業者が現金交換)による高換金率店や等価交換店が増えた。換金率インフレ(物価上昇)の背景には、あくまで大もうけしたいファンと、当局の“指導”により機種のギャンブル性を抑える内規改正を繰り返した業界サイドのいたちごっこがある。CR機導入以降、1台あたりの値段は跳ね上がり、新機種入れ替えも激しくなった。ホールの出費は相当なものになっているという。 前出の関係者は「ローリスク・ローリターンの遊戯性にギャンブル志向の強いファンがどこまでついてこれるかが、今後の業界動向を占うことになるでしょう」と話している。
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トレンド 2007年10月10日 15時00分
「私、テレビの味方です」松浦亜弥 仕事が減ってめっちゃホリディ状態!?
「松浦亜弥(21)」と書いてハッとした。もう、あややは21歳になったんだ!デビューしたのが2000年の秋だから14歳のこと。翌年の4月、「ドッキドキ!LOVEメール」でCDデビューを果たした際は国民が度肝を抜かれたものだった。それは「こんなヤツが兵庫県にまだいたのかよ!」という驚きと、「14歳にして、このスキルの高さはいったいどういうことだ!」という仰天だった。アイドルになるべくして生まれてきた“神の子”だと思った。 同年、「トロピカ〜ル恋して〜る」「LOVE涙色」でアイドルヲタ以外のファンを広く獲得し、2002年にリリースした「桃色片思い」「Yeah!めっちゃホリディ」で人気は頂点に達した。この時、あややはまだ中学生だった。 しかし、である。いつからかあややをトップアイドル視する声は聞かれなくなった。2001〜2002年には時代を代表するアイドルだったあややを、ブラウン管で姿を見掛ける回数もめっきり減った。今秋の時点で地上波でのレギュラー番組は「メレンゲの気持ち」(日本テレビ系)しかなくなった。8月29日発売のシングル「笑顔」はオリコン初登場16位と低迷。1万枚に届かなかった。 ここで考えたいのは、その原因である。あややはなぜお茶の間から見放されたのか? 一つには、消費速度だ。アイドルだろうがなんだろうが、人々はあっという間に消費して、あっという間に忘れ去る。“過去の人”といったら言い過ぎだが、いわゆるアイドルとしてのすっかり旬は過ぎているわけだ。それを人々は感知している。あややに飽きれば、長澤まさみ(20)に興味が移るだけの話だ。 そして、もう一つ。事務所のプロモーションだ。所属タレントをどのように位置づけ、時代に適応させていくかを考えて、実践するのは事務所の仕事であるのは言うまでもないが、あややの所属事務所ほど時代性を無視している事務所も珍しい。いわゆるヲタ向けの商売しかしなくなってしまって久しい(それが儲かっているのだから、問題はさらに複雑化している)。 それを痛感したのが、今月5日深夜スタートの新番組「業界技術狩人ギョーテック」(テレビ朝日系)にゲスト出演したあややのセリフを聞いた時だ。司会の藤井隆(35)が「あなたのお仕事は?」と聞くと、あややは「みんなを幸せにすることです。ちなみに、私は生まれる前からアイドルです(満面の笑みとピースサインで)!」と答えてのけたのだ。 もちろん、あややは今でもトンデモなく可愛いだろう。だが、現在もあややをアイドルとして必要としている国民がどれだけいるのだろうか?あややのピースを見て、そんな疑問が浮かんでしまったのだった。
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その他 2007年10月10日 15時00分
「アキバ探検隊」メイドさんのボディーガード直撃
秋葉原の街頭では大勢のメイドさんがPRチラシを配っている。周囲はアキバ系が目立つが、夜はタチの悪い客も少なくない。トラブルを未然に防ぐため、遠目からメイドさんを見守る“ボディーガード”が登場している。 夜8時すぎのJR秋葉原駅電気街口。チラシを配るメイドさんから距離を置いた後方、スーツ姿の男性がずーっと立っているのが気になった。メイドさんを気にしている様子だが近づく気配はない。最近こうした光景をよく見かける。 足裏メイドリフレ「キューティーリラックス」(千代田区外神田1-16-10ニュー秋葉原センター2F奥)では、店長自らが不定期に見回りをしている。 「夜間だけでなく土日祝日の日中なども怪しい人がいますね。女の子がトラブルに巻き込まれないように、やや距離を置いて見守っています。ただ、お客さんなのか不審人物なのか線引きが難しいんですよ。話し込んでいたら近付いて『ご案内いたしますか?』と話しかけます」と店長。 同店メイドのすずさんは「夜は気軽に話し掛けてくる酔っ払いが多いですね。『お店どこなの』『一緒に写真撮ろうよ』としつこくされると困ります。若い人は『メアド教えて』『どっか行こうよ』とナンパめいた感じですね」と街頭でのやりとりを打ち明ける。 秋葉原では昨年秋以降メイドさんが襲われる事件が相次いだ。ストーカー行為や“お触り強行”に悩む店もあり、所轄の警視庁万世橋署は今年6月、防犯指導のためメイド喫茶店長らを集めて防犯連絡会を開いた。店側にも自主的な防犯態勢が求められているわけだ。 某店メイドさんは「派手なカラーシャツのチンピラに絡まれたことがあります。だれも助けてくれなくて怖かった」と話す。ドラマを地でいくアキバ系の「電車男」化が待たれる。
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レジャー 2007年10月10日 15時00分
秋華賞(JpnI 京都芝2000m 14日) ダービー馬ウオッカがラスト1冠に全力投球
壮大な夢はお預けとなった。ウオッカはその悔しさをぶつけるため、この秋は国内3戦に全力投球する。 「秋はオーナーから3戦と言われている。この後はジャパンCから有馬記念に向かいます」角居師は胸を張り、そう言い切った。 春は64年ぶりに牝馬のダービー馬に輝いた。自らの底力で手にした3歳日本一の座。それをさらに輝くものにするため、秋はフランス・凱旋門賞に挑戦する予定だった。しかし好事魔多し。栗東での調整中、右トモの蹄球炎を発症してしまい、渡仏は幻に終わった。 気持ちの切り替えは早かった。脚部不安が分かると角居師はすぐさま秋華賞へと照準を変更。夏場をじっくり調整にあててきた。乗り運動には師自らまたがるなど、丹念にスキのない仕上げを施してきた。 「いい感じできています。これなら、楽しみですね」じょう舌はいらない。簡潔に師は自信を表明した。 栗東CWコースで3頭併せを敢行した3日の1週前追い切りは、その言葉通り、軽快で力強かった。闘志をジッと内に秘めながら、ゴールを迎えた。 村山助手は言う。「併せ馬で前に出るとスイッチが入ってしまうので、そのあたりに気をつけて四位(騎手)さんも乗っていた。宝塚記念は壁をつくれず折り合いに苦労したけど、今の雰囲気なら大丈夫でしょう。直前はコースに入らず、坂路でやるつもりです」 太めも、緩みもない。ひと夏を順調に過ごし、左の筋肉が勝っていたトモのバランスも良くなったという。あとは、味付け程度の調整で十分のようだ。 凱旋門賞の夢は来年以降に持ち越されたが、3歳牝馬としてJC、有馬記念を勝てばそれもとんでもない快挙になる。しかし、ウオッカにはその前にやらなくてはならない仕事がある。 3歳牝馬に残された最後の1冠を手にすること。桜花賞はダイワスカーレットに敗れ、オークスは出走しなかった。ウオッカのダービーにとどまらず、スプリンターズSもアストンマーチャンが制するなど、史上まれに見るハイレベルといわれる今年の3歳牝馬。同世代の女の戦いにもきっちりケリをつけ、ウオッカは最高峰をにらむ。
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レジャー 2007年10月10日 15時00分
秋華賞(JpnI 京都芝2000m 14日) ダイワスカーレット 春とは別馬 樫断念の無念晴らす
本当のナンバーワンはワタシ!そう言いたげな強さだった。前哨戦のローズSを完勝してみせたダイワスカーレット。 引っ掛かり気味に先頭を奪うと、そのまま後続に一度も影を踏ませなかった。上がり3Fは例によって33秒6の鋭さ。逃げながら、ラストをこの時計でまとめられては後続はまったく太刀打ちできない。 「体質が強くなった結果、ローズSではああいう競馬ができた」と松田国師は振り返った。春は桜花賞を制したものの、強い調教を課すと体温が上がる弱さに悩まされていた。シーズン最後とぎりぎりの仕上げにかかったオークスも熱発で取り消している。 「まだ強いケイコに耐えられなかったんだね。負荷をかけるとすぐ38度5分まで上がっていた。でも、ひと夏越してそれがすっかり解消された」ふっくらした馬体、迫力ある大きなフットワーク。同じ栗毛の兄、ダイワメジャーを彷彿させる攻撃的な先行力が身についた。 春はウオッカがダービーを勝ち3歳牝馬ナンバーワンの座に就いた。しかし、そのウオッカを完成手前だった桜花賞でねじ伏せたのはこのスカーレットだ。 だが、松田国師はこう言って気を引き締めた。「ウオッカはもちろん夏場に力をつけた馬もいる。簡単に勝てるメンバーじゃない」と。油断は禁物。最後の最後までハードに攻め抜く“マツクニ流”で最後の一冠を獲りにいく。
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レジャー 2007年10月10日 15時00分
遠い記憶 羽田競馬場の歴史(3)
さて、前回は旧羽田競馬場から新羽田競馬場への移り行きを記した。 現在の羽田空港の南東部、A滑走路の先端あたりにリニューアルオープンした新競馬場の経営は東京府畜産奨励会があたった。 当時、日本一の競馬場といわれた羽田競馬は、春秋2回の競馬が開催され、全国から卓越した馬が集まった。その盛況ぶりは周辺の目黒競馬場や、根岸競馬場を凌ぐほどだったという。 新競馬場での最初の開催は1932(昭和7)年7月3日から5日にかけて行われ、55万4229円の売上を記録している。さらに、34年(昭和9年)7月の開催で売上は初めて100万円の大台を突破、その後も地方競馬では全国一の盛況が続いた。 しかし、当時の日本(大日本帝国)は31(昭和6)年の満州事変を機に、33(昭和8)年、国際連盟を脱退。軍事政権の下、第2次世界大戦への道を歩んでいく。そして、日中戦争の勃発に伴い立法された軍馬資源保護法の施行によって、羽田競馬は37(昭和12)年限りで廃止、翌38(昭和13)年に廃場へと追い込まれた。 跡地は日本特殊鋼株式会社の用地となり、その一部には高射砲陣地が設けられた。 こうして幕を閉じた羽田競馬だが、わずか10年余りの歴史とはいえ、日本で最初の少年騎手学校がつくられるなど、日本競馬の発展の過程で果たした役割は大きい。 ※参考文献=大井競馬の歩み/大田区の近代文化財/写真でみる郷土のうつりかわり/地方競馬史第一巻(1972年 地方競馬全国協会)、