アメリカをはじめ、諸外国でも特許を申請した。国内外で獲得した特許権の数は48種類。後に「エバー・レディ」は外して再び「シャープペンシル」とし、現在でも繰出鉛筆の代名詞になっている。
大正6(1917)年にはシャープペンシルの売上は月1万円に達し、従業員数は60人を超えた。大卒の初任給が50円くらいの時代だ。この年の6月には二男の克己が生まれる。関西代理店の福井商店のほかに中部代理店として名古屋の安藤玉華堂と特約を結んだ。
大正7年には従業員数は100人を超え、月の売上は2万円に達した。
大正8(1919)年春、本所林町2丁目の工場(兼自宅)周辺の土地を購入し、工場120坪、事務所24坪を建設した。徳次は同じ敷地内に自宅も造ることにしていた。大阪の中山太陽堂の傍系会社である日本文具製造株式会社の東京支店と特別契約を結び、関東地方の販売を委託したのもこのころだ。
工場・事務所・自宅の完成を待って、芳松夫妻、巻島夫妻、井上せい、それに熊八も招いてお披露目をした。徳次は井上せいの面倒を先年からみていた。義父の熊八を正式に招待するのは初めてだった。林町に移ってから、義母はほとんど姿を見せなくなっていた。
大正4(1915)年に徳次は出野家から離籍し、正式に早川に復していた。この話し合いはすべて政治が間に立って進めた。徳次は熊八側の申し入れをすべて受け入れ、さらに出野家の生活の保障、3人いる出野家の子供が成人するまでの生活を世話するなどの方法を協議した。