「ちょっとしたきっかけがあれば、きっと…」
周囲がそう思っているうちに、歳月ばかりが過ぎてしまったのではないだろうか。
05年度高校生ドラフト1巡目指名、元阪神の鶴直人は17組目で登板した。打者3人に対し、奪三振1、ノーヒットに抑えてみせた。タテジマの背番号46、開放された内野スタンドを埋めつくした1万2000人のファンがひと際大きな拍手を送っていた。
そんなファンの後押しもあったからだろう。鶴の安堵の笑顔で報道陣の前に現れた。
−−今日のピッチングを振り返って?
「緊張した。メチャ緊張した。でも、腕はしっかり振ろうと思って。まあ、なんとか」
−−ファンの応援もあったが?
「緊張が和らいだというか…。タイガースのユニフォームを着て、応援してもらって、本当に幸せだと思いました」
−−NPBで再スタートしたいという思いで間違いありませんか?
「そうですね。今後は色々な選択肢のなかで(どれを選ぶか)悩んで決められたら…。プロ(NPB)でやれるのなら、その気持ちは強い」
鶴によれば、家族、両親も球場に来ていたと言う。「結果はどうであれ、思いっきり腕を振る」、それを心がけて今日まで調整を続けたそうだ。バックスクリーンに表示されたスピードガンは144キロ。キャリアハイとなった12年シーズン同様、キレのあるストレートを軸にスライダーとシュートを投げ分け、内外角を広く使っていた。
「(今季は)覚悟はしていたので。とにかく悔いの残らないよう…」
トライアウトに懸ける意気込みをそう語っていた。
12年以降、成績は下降線を辿った。高校最後の夏は右肘の故障で満足に投げられなかった。その故障もまだ癒えていなかったが、地元阪神が1位で指名した。中日・平田良介らと「浪速の四天王」と称された潜在能力を評価されたからだが、プロ入りしてからの2年間はほとんど投げていない。それでも、将来の先発候補としての期待は変わらなかった。そして、結果を残せずに悶々としていたとき、リリーバーへの配置換えとなった。そのキャリアハイとなった12年は、43試合に登板している。翌13年はリリーバーでスタートしたが、不振とチーム事情が重なり、先発に再転向する。高い潜在能力を持っていたからだろうが、その後も先発か、リリーフかで起用法が定まらず、今日に至ってしまった。
「1位だからということで、今日のために調整してきたのではありません。1位指名選手の緊張はたしかにありました。入団して2年は怪我で投げられず、戦力になれなかったことは申し訳なく思ってきます。後輩たちに負けたくない一心で頑張ってきました。ドラフトは良い思い出ですが」
43試合に登板した12年に一軍投手コーチを務めた藪恵壹氏も球場を訪れていた。自身が出演するテレビ局の取材を兼ねていたようだが、鶴を見つけるなり、「まだ若いんだから」と懸命に励ましていた。
通算成績は9勝8敗。115試合に出場した。このままでは終われない、その強い思いを秘めているはずだ。(了/スポーツライター・美山和也)