徳次にとっては新しい養母だが、年も近かったので徳次は“ねえさん”と呼んだ。後妻と熊八には次々と子供が生まれた。後妻は、熊八の不在の時などに徳次に辛く当たっていたが、子供が生まれるとさらにその度を増していった。
熊八がいないと、自分は食事していても徳次には与えない。徳次が空腹を訴えても返事さえしない。徳次を絶えず折檻(せっかん)するので近所の人が徳次をかわいそうに思い、折檻されていると止めに入ったりした。後妻は徳次が同情されるのがまた気に入らず、周囲に人がいなくなるとさらにひどい扱いをするのだった。徳次は常に養母の顔色を窺(うかが)って怯(おび)えていた。
ある冬の日、徳次は何かに腹を立てた養母から長屋の共同便所に突き落とされたことがあった。徳次の悲鳴を聞いて駆け付けた近所の人に、やっと引き上げてもらったものの、養母は今度は「臭い、臭い」と言って、共同井戸の冷水を頭から浴びせた。恐怖と寒さに震える幼い徳次に、休まる場所はなかった。
明治33(1900)年に作られた「花」(曲・滝廉太郎、詞・武島又次郎)の中では“春のうららの…”と隅田川の長閑(のどか)な様子が歌われた。丁度その頃、徳次は隅田川近くの長屋で辛い幼年時代を送っていた。その長屋から歩いて30分ほど、隅田川の向こう岸に徳次の実家はあった。事実を知っていたなら、聡明な徳次は逃げ帰ることもできたはずだった。
徳次は明治26(1893)年11月3日、父・早川政吉、母・花子の三男として東京・日本橋久松町42番地(現・東京都中央区)に生まれた。
この年、御木本幸吉は世界で初めて真珠養殖に成功している。毛沢東、市川房枝が誕生し、松平容保(まつだいらかたもり・会津藩最後の藩主)が死去した年でもある。