ここで始皇帝に近づいたのが徐福という人物であった。この人物に関する記述は司馬遷の『史記』の「淮南衝山列伝」に見られる。『史記』の記載によると、紀元前219年に徐福が始皇帝にある進言を行う。遥か彼方の東海に蓬莱・方丈・瀛洲という仙人が住む三神山があり、そこに不老不死の妙薬があると述べたのだ。
この徐福なる人物は、中国の方士であり斉国の琅邪の生まれであったとされている。長らく架空の存在だと思われていたが、1982年、江蘇省に徐福村が確認され子孫たちが多数現存することが判明しており、架空の人物ではないことが確定しつつある。
進言を受け入れた始皇帝の命を受けて、徐福は3000人の男女童子・様々な職人を従えて、多額の金銀や五穀の種、農耕機具を持って大船団で東海に向けて旅立って行ったが、平原広沢にて王となり、二度と帰らなかったとされている。たぶん、始皇帝は徐福の甘言に引っ掛かっただけという指摘もあるが、悪意があったのか、何らかの理由で帰れなかったのかは不明である。中国の専門家の中には,徐福=神武天皇と解釈する者もおり、神武東征とは徐福船団の来日ではなかったのかと言われている。どちらにしろ、我が国の成り立ちにこの人物が関与したのは事実であろう。
徐福が目指し上陸した場所は具体的に一体何処であったのだろうか。一行が目指した場所は「トヨアシハラミズホ」であり、「ホウライ」とも呼ばれている不老不死の妙薬のある仙人が住む聖地であったはずだ。
その候補地は幾つかある。最も有力な場所は熊野である。現在の和歌山県新宮市や三重県熊野市波田須には徐福の史跡が残されているという。熊野に定着した徐福一行は、そこで共同体を作り、連れて行った童子たちは周辺の集落の長となったとされている。確かに熊野なら聖地にふさわしい。
他にも沖縄県や愛知県にも上陸伝説はあり、台湾や北米大陸まで行ったという極端な仮説も唱えられている。
正史では徐福の行動は記録されていないと言われているが、富士吉田の神社に所蔵されている『宮下文書』には、徐福が築いた古代富士山国について詳細に書かれているという。徐福の幻の王国は歴史の闇に消えてしまったのだ。
(山口敏太郎)