そこで白羽の矢が立ったのが清盛の異母弟・平家盛だった。家盛は御輿(みこし)に矢を射るなど粗暴な行為で評判を悪くしていた兄・清盛に代わり、周囲の推薦もあり頭領になる可能性が出てきた。だが、持病を押して鳥羽法皇の熊野参詣に随行したところ、帰京の途中に宇治川流域の落合で病状が悪化し、命を落としてしまう。
こうして、清盛の頭領は確実になるのだが、あまりにタイミングの良い家盛の死について「御輿に矢を射た清盛のせいだ!」「祇園社のたたりだ」という噂が流れることになった。
この家盛の早い死はのちのち、平氏の滅亡につながっていく。平治の乱によって、捕虜になった13歳の頼朝の顔が、家盛に似ているという池禅尼(家盛の実母であり清盛の継母)の懇願により、命を助けてしまう。この頼朝によって源氏が打倒平氏に動くことになるとは、清盛は思っていなかっただろう。前述の家盛が亡くなった際に「たたり」という言葉が出てくるが、むしろ神が入っているとみなされている御輿に矢を射てしまい、神の怒りを買ってしまい、清盛の代で平家が滅亡する結果につながったとも言えるのではないだろうか。
なお、長崎県・五島列島の宇久島には家盛の銅像がある。実は壇ノ浦の合戦の後、平家盛と名乗る人物が一門と一緒に逃れてきたという伝説があるのだ。家盛は、宇久次郎家盛と名乗り、宇久氏(五島氏)の祖先となったとされている。果たしてこの家盛と名乗る人物は本物だったのだろうか? まず家盛が死んでからかなり年月が経っている上に、もし家盛が頭領の相続争いに負けて隠居の道を選んでいたとしても、後の政争に巻き込まれて謀殺・誅殺された可能性の方が高い。であるから、彼は重盛の子であり名前の似ている平有盛の間違いではないかという説も出ている。ただ、家盛が密かに生きていたと解釈するほうがロマンチックではあろう。
(山口敏太郎)