その1つが「蝦夷の埋蔵金伝説」だ。
龍馬は生涯に2度、脱藩浪士を用いて蝦夷地(現在の北海道)に移住し、開発する計画を口にしている。そのどちらも、かなり唐突だった印象がある。時期から言えば、京都にあふれる浪士たちへの弾圧が始まる直前というところが共通する。
1度目は神戸海軍学校で塾頭を務めていた時。実際に部下2名を現地視察に送り出した。2度目は幕府の長州征伐が薩長の密約で失敗に終わろうとしていた頃で、徳川慶喜が15代将軍に内定したころでもある。それは、龍馬暗殺の1年前でもあった。
龍馬の計画は本気で、薩摩藩の五代才助を担ぎ薩摩藩の保証でロシア商人から船まで購入している。
当時、江戸幕府の隠し財産や、戦国武将の埋蔵金のうわさが各地にあった。各藩のトップ官僚たちは、どんな小さなうわさでも真剣に耳を傾けていた。
「幕府が隠し財産を使えば、情勢はすぐにひっくり返る」「倒幕派が埋蔵金を奪えば維新回天に大きく貢献するだろう」
埋蔵金の行方は、「幕府につくか、倒幕派に入るか」と悩んでいた諸藩にとって、大きな判断材料になっていたのだ。そうした埋蔵金、お宝伝説にたびたび登場するのが未開の大地・蝦夷。当時からミステリアスゾーンとして話題に事欠かない人気スポットでもあった。
蝦夷を直轄する松前藩では砂金が採取されたことから、カリフォルニアドリームならぬ「蝦夷地ドリーム」に拍車がかかり、手つかずの金脈、金鉱が多数眠っていると信じられた。当時の蝦夷地には、武田信玄がアイヌから巻き上げた国家予算級の埋蔵金が眠っているという「お宝伝説」が江戸初期から伝えられた。財宝が眠るとうわさされた場所の近くには、お宝を守っているかのようなモニュメントがあり、伝説のモンスター化に拍車をかけていた。
地理的に遠く離れた九州の人々が抱く蝦夷地の印象は、宇宙人をイメージするのに似ていた。薩摩で語られる蝦夷地に関する情報は「冬は寒い」以外、伝聞に過ぎなかったはずだ。伝聞だけなら、ほら話に終わっただろう。しかし、情報通で知られる大物浪人の坂本龍馬が、持ち前の会話術でお宝伝説を繰り広げたことで、信じる人も出てきてしまったのかもしれない。
(山口敏太郎)