徳川家光は二代目将軍である徳川秀忠の嫡子であったが、幼い頃から病弱で無口な子供だったという。そのため、周囲も弟である忠長の方が将軍に向いていると考えており、家光は母親であるお江の方にも疎まれており、思いあまって自殺を図るほどであった。
これを重く見たのが乳母の春日局であった。江戸城大奥の礎を築いたとも言える彼女は、稲葉正成の妻で慶長九(1604)年に家光の乳母となるために江戸へ赴いた。なお、大奥入りの前に夫とは離別している。江戸城で彼女は家光に対し、乳母として愛情を注いでいたが、家光の置かれた現状に憤慨して、伊勢参りを口実に江戸城を出ると、当時駿府にいた大御所である徳川家康に現状を直訴しに行ったのである。その結果、家康からの言もあり、家光は三代将軍になることが決定したのである。
しかし、一介の乳母に過ぎない春日局に、大御所である家康を動かす事ができたのだろうか?
家康が旧来の「家督は長子が継ぐもの」という考えを揺るぎなく持っていたという事も考えられるが、前述のように家光が実は自分と春日局の子だったから、という説が存在しているのだ。確かに、そう考えると実の母に邪険にされたり、乳母の春日局がまるで生母のように家光を溺愛した理由も解らなくもない。
また、この説の証拠となる文献が存在するという。江戸城に存在した紅葉山文庫の蔵書『松のさかへ(栄え)』の記述だ。『史籍雑纂』第2巻にも収録されており、内容は徳川家内々の話をまとめたものとなっている。巻一は「東照宮様御文」、つまり家康から送られた言葉となっており、そこには息子である秀忠の正室、お江の方へ子供の教育方法を述べている内容が書かれている。ちなみに信長の命によって切腹することになった長子、信康に対する自分の教育の失敗を述べている内容もあり、 家康本人の子育てに対する苦悩が窺える文章となっている。
そして、この箇所の文末に下記の記述が存在する。
「秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局、三世将軍家光公也/同御二男 國松君 御腹 御臺所 駿河大納言忠長公也」
つまり、家光を産んだのは春日局であると書かれているわけだ。また、日光山輪王寺には、家光が生涯持っていた「御守袋=細い和紙」には、「二世権現、二世将軍」と書いているのだ。つまり、初代権現の家康の次の権現というわけだ。実際は二代目将軍は父親である徳川秀忠が務めているが、秀忠を差し置いて「二世権現」と言えるのは、彼が家康の子である証拠に他ならないというのだ。果たして、これは真実なのだろうか。
(山口敏太郎)