また、九条通りの羅生門に鬼が棲みついているという噂が流れ、渡辺綱は確かめる為一人で出掛けたところ、門の軒下から大きな鬼が綱に飛び掛ってきた。綱が鬼の腕を切り落としてしまうと、鬼は逃げ去った。暫くして、綱の屋敷に乳母に化けた鬼が訪れた。乳母は鬼の腕を奪うと、正体を現し、屋根の穴から何処かへ逃げ去ったという。これらの話は謡曲や長唄として有名である。
慶長13(1613)年、徳川家康の直命によって家康の9男・徳川義直が尾張藩の藩主に封ぜられた。渡辺半蔵守綱(1542〜1620)も義直の付家老、軍事担当重役として尾張に派遣された。守綱は、武蔵国の4000石に加えて、尾張国岩作(愛知県長久手町大字岩作)で尾張藩より5000石、三河国寺部(愛知県豊田市寺部町)で幕府より5000石を与えられ、あわせて1万4000石を領して、矢作川の戦略的価値から寺部城(愛知県豊田市寺部町)・城主となった。
渡辺守綱は、家康の十六将の一人として活躍し、「槍の半蔵」とも呼ばれた武将でもあり、また、渡辺綱の子孫であった。昔から鬼は渡辺一族を恐れ、恨み続けてきた。そのため、守綱が寺部の地を治めるようになると、村人達は渡辺一族と鬼の争いに巻き込まれることを恐れ、どの家も戸締りをいっそう厳重にした。さらに鬼が家に入ってこないように屋根のツマの穴まで塞いでしまったという。
明治維新の頃まで、寺部町辺りの家々のツマ(建築で切り妻屋根や入母屋造りの屋根側の三角形の部分)は全て込められていた。江戸時代の藁葺き屋根の家では破風穴が煙突の役目をしていた。そのツマを全て塞いでしまっていたから、不便であったに違いない。
現在、寺部城跡には、渡辺家三代治綱によって菩提寺として建てられた守綱寺が残っており、守綱の墓所もここにある。
(写真:「守綱寺」愛知県豊田市寺部町二丁目)
(皆月 斜 山口敏太郎事務所)