そのびわこの歴史をまず飾ったのは中井光雄だった。昭和29年から31年までの地元高松宮杯を3連覇したのである。
中井が選手登録したのは16歳の時、昭和25年7月には競輪選手として走りはじめた。そして3年後の名古屋全国都道府県選抜競輪3000mで優勝、同年の大阪中央全国争覇競輪(今の日本選手権競輪)も快勝。ライバルだった松本勝明(京都)とともに、特別競輪の覇を争った。
びわこで連覇を続けていた昭和30年には大宮全国都道府県選抜4000m、昭和31年神戸全国都道府県選抜も獲った。先行してよし、まくってよし、追い込みに回れば番手もあった。
高松宮杯の3連覇は、のちに滝澤正光(千葉)が昭和60年から62年と3連覇してタイ記録を作った。それまでは連覇した選手こそあれ、3連覇は出来なかった。
昭和34年には大阪中央のオールスター競輪も勝った。競輪祭を獲っていれば当時のグランドスラマーになっていただろう。獲ったタイトルの数は7個というすごさだった。
惜しいレースもあった。昭和33年の後楽園日本選手権だ。吉田実(香川)が優勝したレースは、当時、若手売り出しの白井通義(神奈川)が強引に中を割って、吉田も中井も落車入線というすごいレースだった。白井の前輪が中井の後輪を押し、それがさらに吉田のレーサーを押し出した。もしもすんなりのレースだったら、中井が吉田を捕らえていたのではないか、といわれたくらいだ。
後に白井が「中井さんに悪いことした。あのままなら中井さんの優勝だった」と語っていたことがある。中井は「ひとつタイトルを損したんかいな」と平然としていたが、人格的にも優れていた中井はその後、大津市の名誉市民に推されている。
松本と中井。京都から比叡山を上ってくる松本、かたや中井は大津から山を上る。頂上でよく顔を合わせていたという。お互いにスターとしての価値は胸の内で認めあっていた。
松本は昭和40年12月の後楽園で「千勝」を達成した。中井の「千勝」は競輪史上5番目で、昭和60年10月の甲子園と20年の差はある。平成6年からともに「名輪会」のメンバーとなり、サイン会などでファン・サービスをしていた。
本来なら「京滋ライン」なのだが、いまの近畿ラインのような連係したレース展開ではなかった。まくりの多い松本と後ろにつけば「よしゃ」と動く中井。もちろんお互いにライバルとして鍛えたのであった。