溢れかえったファンで危険となり川崎の施行者はバンクの内側に緊急措置でファンを入れた。その目の前で白鳥伸雄は高原永伍(神奈川)の先行を3角から仕掛けて見事にタイトルを獲った。
喜んだファンは白鳥を胴上げ。競輪では例のない光景が繰り広げられた。そのシリーズ6日間の入場人員は25万7567人。平均4万人以上が川崎に詰めかけたのである。その時白鳥は37歳だった。
22歳で競輪界に入った白鳥は当時の選手年齢からいえば「遅い」部類だった。
「強くなったのはデビューしてから10年目の昭和35年ころかな。もちろん練習は人よりやっていたし、勝つための作戦も考え続けていた」
昭和34年、立川の全国都道府県で優勝したが、西武園で大本命になりながら、タイヤがはずれて棄権した時には騒擾事件になった。それがかえって白鳥の競輪に対する意欲をかき立てた。
昭和40年の川崎オールスター、同年の高松宮杯、昭和42年の秩父宮妃賜杯、白鳥の「3角まくり」をみるためにファンはつめかけていた。
「3角まくりというけど、踏み込むタイミングは番手次第だったんだよ。番手が悪い時にはホームからでも踏んでいた。すべてが3角まくりじゃなかった」という話を引退して報知新聞の評論家になった時に聞いたことがある。
「こどもを抱いたことはなかったね。腰に悪いから」というくらい、競輪に集中した白鳥は昭和42年の後楽園・日本選手権2次予選で敗退するとあっさり引退してしまった。
「これからはスピード競輪になる。とてもかなわないよ」というのが引退の理由だった。引退まで820勝。そのまま走り続ければ千勝はしただろう。だが、白鳥はそんな欲をぽんとすてた。
日本選手権では昭和38年の一宮で1着失格、昭和39年の後楽園でも1着失格をしているが、11番手からまくって敢闘賞を貰ったときに「なんで敢闘賞なんだ。勝つのは当然だったよ」という自信溢れる話を聞いたことがある。白鳥の話題はまだまだある。