その天沼児童遊園の一角に、「意安(いあん)地蔵尊」が安置されている。享保2年(1717年)の銘があるこの地蔵は、もともとは行き倒れた人々を供養するために建てられた。通称で稲穂地蔵と呼ばれていたが、2006年に、意安地蔵と名づけられた。その経緯が興味深い。
杉並の郷土史家や民話研究家たちの調査によると、なんと、地蔵が安置されているほこらの前の四差路では、一度も交通事故が起きたことがないという。確かに、四差路の路上には「とまれ」の印があり、見通しの悪い交差点でカーブの先を見渡すための道路反射鏡が複数ある。しかし、ガードレールはなく、記者が訪れた日曜日の昼下がりでも、ひっきりなしに、自動車や自転車が通行していた。
ただ、よく注意してみると、どの車両もしっかりと一時停止して、すぐにでも停止できるスピードで注意深く四差路へ入っていく。静かに抜けていき、歩行者も前後左右をしっかりと確認していた。その様子は、まさに交通事故ゼロを象徴するかのようであった。
杉並区はもともと、勾配の急な坂や、台地や、湿地帯に覆われた武蔵野の地だ。昭和以降の区画整理や道路拡張で平たんな土地や道が増えたが、今でも、大きな道路から脇に入ると、道や地面がなだらかに隆起した場所が多い。
大とり神社から西へ向かう道は、現在は平たんになっているが、明治大正期から昭和初期までは「げんぼう坂」と呼ばれた急坂だった。荷車を引く者にとっては難所となっていた。
同じく杉並区にある和泉熊野神社脇に「尻割坂(けつはりざか)」がある。急坂で腰の筋が張ることを意味するという。現在も、「尻割坂」と呼ばれている。(竹内みちまろ)