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橋北中学校水難事件は2段階の謎を秘めていた・後編

 お盆休みは死者を身近に感じる時期でもあり、怪奇物語が様々なメディアを賑わせる。中でも特に衝撃的なものとして「泳いでいたらモンペ姿の女性たちに足を引っ張られ、溺れた」という、水泳講習中の女生徒が三重県津市中河原海岸で突発的な潮流に流され36名が死亡した事故がある。この痛ましい惨事は、先のような生存者の証言により、現代の怪奇伝承として今なお頻繁に取り上げられている。

 しかし、広く流布されたモンペ姿の女性が足を引っ張ったとの恐怖証言については、事故当時の水深が80センチ程度だったこともあり、記憶違いにしてもいささか無理がある。もちろん、海底の砂から亡者が手を伸ばすというというのは、なかなかの恐怖でもあろうが、事故の生還者が証言した「海中を歩いていると、急に足元をさらわれるような流れを感じ、気がついたら流されていた」様子を、詩的に表現したものと言えよう。

 では、モンペ姿の女性というイメージはいつ、どこからやってきたのだろうか?

 事故や災害に際し、もく星号事件のような陰謀論が取り沙汰されることはままあるものの、橋北中学校水難事件のような心霊譚が民間伝承として定着した事例は意外に少なく、むしろ珍しいとさえ言えるのだ。

 まず、水難事故が発生した1955年7月28日は、ちょうど10年前に津市中心部が壊滅した空襲の日と重なっており、早くも翌56年7月29日には地元紙に空襲と水難との因縁を語る住民の様子や、生存者の「大勢の女性が【海の底】から引っ張りに来た」との談話が掲載された。その他の資料などから、地元では事故の直後から戦災と水難を結びつける因縁話が語られており、モンペ姿の女性というイメージについても早い段階で成立、定着していたと思われる。

 また、別の7月24日空襲では事故現場から2キロほど南の津市贄崎や阿漕で海岸へ追い詰められた人々が海へ逃げたが、高波にのまれ溺死したとの伝承がある。さらに、その24日空襲では火葬場も消失していたため、問題の同月28日空襲に際しては犠牲者の遺体を海岸へ埋葬したとの説まであるのだ。ただし、海岸への埋葬に対しては地元漁師の反対などあり、油をかけて荼毘に付したとの話もある。そのため、実際に葬られたのは一部の身元不明人らしい。そして、埋葬地は中河原海岸、つまり事故現場のすぐそばであった。これらの状況から、モンペ姿の女性は戦災の記憶がもたらしたのは間違いない。

 記録によると、事故現場付近の海岸に埋葬された無縁仏は36体。奇しくも事故の犠牲者と数が一致しており、当時は因縁を感じた人もいたようだ。(了)

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