キャンプでは毎日、川上さん自らが1時間はみっちりとミーティングをやる。しかも、あらかじめ「レポートを出してもらうかもしれんから」と言われれば、居眠りするどころではない。若いオレなんか、一番前の席で必死になってノートを取る。
そんなある時、浴衣と丹前姿で赤みがかった顔の長嶋さんが一番後ろの席についたら、川上さんが「長嶋、レポートは『よくわかりました』の1行じゃダメだぞ」と一言。オレはなんのことかよくわからなかったが、ベテラン連中から大爆笑が起こったよ。今ならオレもよくわかるけどね。
そういう風に長嶋さんを引き合いに出して、他の選手たちをガッチリと掌握する。それは実際にあったよね。それにしても、川上さんのミーティングは中身が濃くてすごかったよ。今で言えば、野村さん流だろうね。オレは直接、野村さんのミーティングを聞いたことはないが、教えを受けた連中がみんな「投手の配球、打者のねらい球の絞り方など具体的でわかりやすい。野村さんはすごい」と絶賛しているよね。
それを聞くと、「川上さんと全く同じじゃないか」と思うんだ。『野村ID野球』、『野村の考え』などともてはやされている野村さんだが、元祖は間違いなく川上さんだよ。しかも、川上さんのすごいのは、自分を批判した相手の言葉にも耳を貸し、その人物を招く度量のあることだ。何でも1人でやらなければ気の済まない、批判されたら激怒する野村さんとは違うところだね。
そう、牧野さんのことだ。中日を退団して評論家をしていた牧野さんが書いた、痛いところをついた川上野球批判の記事を読んでこうやって口説いたというんだ。「オレのことをそんなにわかっているのなら、オレの右腕になってくれ」と、
当時、牧野さんは30歳代の前半だったはずだよ。普通なら批判記事を読んで「この若造がなにを偉そうに」となるよね。それなのに、怒るどころか、大難題さえあったのに、それを乗り越えて巨人のコーチに呼んだんだから、すごいよ。
読売が「牧野を取るのに、中日新聞に頭を下げるのはご免だ」と拒否したというんだ。新聞社としてライバル同士だから、メンツがあるよね。それでも川上さんがあきらめないので、「読売が中日に頭を下げるのはこれが最初で最後だ」と言って、仕方なく頭を下げたんだって。V9なんて二度とあり得ない大偉業を達成した監督には、凡人には計り知れない度量の大きさがあるんだよ。ONを使い切ったのと、牧野さんを招いた度量だ。
<関本四十四氏の略歴>
1949年5月1日生まれ。右投、両打。糸魚川商工から1967年ドラフト10位で巨人入り。4年目の71年に新人王獲得で話題に。74年にセ・リーグの最優秀防御率投手のタイトルを獲得する。76年に太平洋クラブ(現西武)に移籍、77年から78年まで大洋(現横浜)でプレー。
引退後は文化放送解説者、テレビ朝日のベンチレポーター。86年から91年まで巨人二軍投手コーチ。92年ラジオ日本解説者。2004 年から05年まで巨人二軍投手コーチ。06年からラジオ日本解説者。球界地獄耳で知られる情報通、歯に着せぬ評論が好評だ。