その特別な貨物とは、ブラジルのピカソとも称された日系人画家「マナブ間部」の絵画であった。日本における個展を終えてブラジルへ戻る作品は153点もあり、時価総額124万ドル(当時のレートで約2億5千万円)、梱包を含めた重量は約1.2トンに達していたのだから、搭載に時間がかかるのも当然といえば当然だった。そして、離陸から約30分後に銚子沖の位置通報点で発した通信を最後に、967便は消息を絶った。
だが、連絡が途絶した直後は、成田の管制官も運行会社も危機感を抱いていなかった。なぜなら、当時はまだ航空無線のトラブルがあり、また国際線では飛行中に周波数を変更することもあったため、通信の途絶もしばしばあった。そして、大型ジェット機の運用寿命は20年以上あり、問題の967便機(1966年製造、シリアル19235)も老朽機と言えなかった。乗務員の操縦技術にも問題はなく、特にジルベルト=アラウージョ・ダ・シウバ機長は飛行時間が2万3千時間に達する大ベテランで、1973年の空中出火事故では燃える機体を不時着に導き、奇跡の生還を果たした腕利きだったのだ。
当日は銚子沖の天候が良かったこともあり(21時では雲量0、風も弱かった)、単なる無線の不調か、連絡の行き違いだろうと、当初は楽観視していたと伝えられる。しかし、到着予定時刻を過ぎても967便はロサンゼルスに現れず、燃料が尽きる時間を過ぎてもなお、どこの空港からも967便の情報は得られなかった。遭難が確実視され、海上保安庁と自衛隊による大規模な始まったが、数日たってもなお967便の残骸はおろか、漂流物すら発見されなかった。
太平洋のただ中で、967便は忽然と姿を消したのである。
(続く)
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